tsuzuketainekosanの日記

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11日なので読書感想文~『化け物心中』

はい。てなことで秋アニメ感想、いったん休憩。

11日、1が付く日なので読書感想文です。

 

ぶっちゃけるとこの本を読んだのも、感想文を書いたのも1か月以上前のことです。

ふふ。この本を読み終えてこの記事を挙げるまでにも、いくつかの本を読みました。

読む本が途切れることなくあって、それを読めると言うのはありがたいことだなぁ。

そんなことをしみじみと感じている今日この頃でございます。

 

そんな具合で本日、感想をお送りするのは蝉谷めぐ実さんの『化け物心中』です。

こちらは2020年に刊行された作品で、蝉谷さんのデビュー作でもあります。デビュー作でありながら刊行されるや否や大きな話題となり、第10回日本歴史時代作家協会賞新人賞をはじめとする数々の賞を受賞した、まさに破格のデビュー作とも言える作品です。

私も以前から気になっており『早く・・・早く文庫化されておくれ』と文庫化を待ち望んでいたのですが、3年の月日を経て、今夏、待望の文庫化。てなことで早速と読んでみた次第です。

 

ちなみに表紙の装画は紗久楽さわさん。江戸を題材とした作品を数多く描かれている漫画家さんで、BL『百と卍』の作者さんとしても知られている方ですね。

 

ではでは。まずは作品のあらすじです。

時は文政。舞台は江戸。ある夜、中村屋の座元と狂言作者、そして芝居に出演が予定されている役者6人が次の芝居のための前読みに集った。その最中、その輪の真ん中に生首が転がり落ちる。だが役者の数は元のまま。つまり何者かが人間を食らった鬼でありながら、その食らった人間の姿に成り代わり生きていると言うことに違いない。

中村屋の座元の依頼でこの事件の謎に挑むことになったのは、かつては一世を風靡した女形でありながら、ある出来事により舞台に立つことが叶わなくなった魚之助。そしてその魚之助とひょんなことから知り合いになった、鳥屋を営む心優しき藤九郎。

光と闇。裏と表。嘘と真。本物と偽物。人間と鬼。男と女。すべてが知り混じった芝居の世界、人間の生きる世界。その中から、果たして2人は誰が鬼かを見出すことができるのか、と言うお話です。

 

『人間に成りすましている鬼は誰だ!?』と言うミステリーが土台である作品ではありますが、どうぞミステリーが苦手と言う方も、安心して手を伸ばして下さい。

難しいトリックなどは出てきませんし、この作品の根幹、魅力は、むしろそこではない、と私は思います。

いや勿論『鬼はどいつじゃあぁぁあぁ!』と言う謎解き部分。そこにぐいぐいと引っ張られていくのは言うまでもないことなのですが、それ以上に、本作品の根幹、魅力となっているの『鬼は誰だ』と言う調査。それを通して浮かび上がってくる、芝居に取りつかれた人間たちの、あまりにも濃厚すぎる、グロテスクすぎる、エネルギッシュすぎる生き様。

あるいはその調査にあたる魚之助、藤九郎、この2人の生き様。思いの在り方。そのどうしようもない切実さみたいなもの。

そうした、何と言うのか、人間が人間であることのどうしようもなさ。ぐちゃぐちゃでどろどろで、何ならとても醜くて。しかしだからこそ、その中に救いのようにして存在している愛おしさみたいなもの。

それこそがこの作品の根幹であり魅力だと思います。

 

なので『ミステリーか。うーん、苦手なんだよなぁ』と言う方も、その部分だけで本作を手に取らないと言うのは、あまりにも勿体ないことなので!

頼むから読んでくれたまえ!(土下座)

 

なんで『魂』と言う感じには『鬼』が入っているのだろう。

この作品を読んでいる途中、ふと、そんなことが気になったので調べてみたら『鬼』と言う感じ自体が『魂』と言う意味を持っている。元々は『鬼』と言う感じは死体を表す象形文字であり、そこから『死者の魂そのもの』であったり『姿かたちのない霊』を示す意味として『魂』と言う感じに用いられることになった、らしいです。

『あぁ、だとすれば魂のある生きもの、人間含めたみんなみんな、その内面には『鬼』を存在させているのかもしれないなぁ』と私は思ったのですが。

 

鬼と聞くと、恐ろしい存在。そんなイメージをされる方がほとんどでしょう。私もそうです。そしてこの作品においても鬼はそのような存在として描かれています。

そりゃそうだ。人間を食い殺しておいて、その人間に成り代わってのうのうと生きているんだから。

 

ところが、です。

あまり詳しく書くとネタバレになるので書けないのですが。

『本当に恐ろしいのは鬼なのだろうか』

そんな疑問に駆られるくらいの人間模様。人間の思惑。人間の生き様。それが実にエネルギッシュな筆致で描かれているのが本作品なのですね。

ここがもう、物語としても構成としても実にうまいし、読み応えしかない。

つまり人の、人だからこその、鬼よりも恐ろしいかもしれない。鬼よりもえげつないかもしれない。鬼よりも苛烈かもしれない。鬼よりもどうしようもないかもしれない。鬼よりも得体が知れないかもしれない。そうしたどろり、とした部分。それらが徹底的に描かれている。

 

そしてそれらを突き抜けた果てに待ち受けていた『鬼は誰だ』と言う謎に対する解答。

そこに待ち受けていた真実みたいなものが、またこれ『本当に鬼は恐ろしいのだろうか』と言う疑念に駆られてならないものと言うか。

と言うか『結局、人間も鬼も一緒なんじゃないかな』と言う思いに駆られてならないほどのそれだったと言うのが、またこれ憎い。

 

人間の中には魂があり、だから鬼もそこにはある。

だから人間も鬼も、そう変わりはない。

 

で、です。

もうひとつ、この作品を貫いている要素と言うのがありまして、それがすばり『愛』です。『愛』。

こんなふうに書くと『陳腐だなぁ』と思われる方もいらっしゃるかもしれないし、私も自分で書きながら『陳腐だなぁ』と言う気がしないこともないのですが。

 

それでも読まれた方ならわかるはずです。

愛、ですよね。愛。

それもどちらかと言えば『綺麗』とか『美しい』とか。そう言う言葉からかけ離れたところにある、もうどうしようもないくらいに醜くて、不格好で、どろどろの愛。

そしてその愛に囚われてしまっている人間たちの生き様。やはりどうしようもないそれが描かれていて、こちらの胸を揺さぶってくる。揺さぶって、揺さぶった挙句に、だけど彼らの姿に対して、どうしようもない愛おしさみたいなものを抱くようになる。

そんな流れになっているのも、また最高だと私は感じました。

 

本作品には役者が数多く登場します。

なのでその役者たちの芝居に対する愛が叩きつけるようにして描かれているのですが、その愛は、もはや妄念、執念、情念と言ってもいいほどのそれなのです。

芝居と現実。役と自分自身。その両者に引かれているはずの境界線。それが強くなればなるほどに、狂おしいほどの愛を芝居に、役に感じ、それが淡くなればなるほどに、狂おしいほどの愛を、やはり芝居に、役に感じずにはいられない役者と言う人間の性、あるいは本能みたいなもの。

 

人間としての理性も思考も失い。もはや芝居も現実も、役も自分自身も混然一体となって存在していられたならば、どれだけ幸福なのだろうか。

そんなことを感じさせるくらいに、彼らの姿。芝居に対しての愛。それらは苛烈で深刻で、切実で、狂気にも似ていて、だからこそ純粋極まりないのです。

 

それでも、どんなにどんなに恋焦がれても、愛しても『自分』が『自分』を訴えてくる。狂うことができないままに、芝居と現実、虚構と現実、役と自分自身の間で彼らはどうしようもなく葛藤してしまう。

その姿がまた読んでいて非常に苦しいと言うか、切ないと言うか。

 

で、本作品の主人公の1人である魚之助。この魚之助もまた、そうした妄念、執念、情念、芝居に対しての愛。そこに縛められている人物の1人であります。

ただし他の役者が立場や人気、実力の差こそあれ現役の役者として活躍しているのに対し、魚之助は、今は役者ではありません。

一世を風靡した、そして今なお、その再起を信じる者も多くいる女形であった魚之助は、しかし贔屓の客に足を傷つけられ、結果として両足を切断しています。

つまり自分の足で歩くこと。それすらままならない状態なのです。故に役者として舞台に復帰すると言うのも、なかなかどうして現実的ではない。

(ただしちょっとネタバレすると、物語終盤にはそこにひとつの希望が見出されるのですが)

けれど役者、女形でなくなってなお、魚之助は女の格好をし、化粧もし、その主語は時に女のものになることもあります。

 

そんな魚之助にまさしく足代わりとして扱われている藤九郎は、その魚之助に対して複雑な思いを抱いています。

魚之助は男なのか、女なのか。どう生きたいと思っているのか。どうありたいと思っているのか。どう生きるのがいちばん幸せなのか。そしてそんな魚之助に対して、時折、揺れる自分の感情の、その正体は何なのか、と。

 

物語の終盤。『鬼は誰か』と言う謎が明らかにされた後。

2人の嘘偽りない心中が吐露されるのですが。

ここがもう、読んでいて、私は泣いた。

 

芝居に取りつかれた、様々な、鬼と一緒くたになった人間たちの愛。

妄念、執念、情念。

それらが描かれ切った後に、そうした人間たちの集大成とも言えるような存在であるところの魚之助。人間であり、鬼でもある魚之助。

現実と芝居、現実と虚構、役者と自分自身、女と男、女形と男。その合間、その境界線のあわいに葛藤し、苦悶し、苦悩し『自分はいったい何者なんだ』と言う問いを、自身に刃のごとく突き付けていた魚之助。

 

その魚之助が吐露した心中。その魚之助が欲しかった愛。

そしてそれに、嘘偽りのない心中を返した藤九郎。その愛。

それもまたどうしようもなくぐっちょぐちょなんだけれど、だからこそこの作品に描かれていた愛の中でいちばん温かくて、まっすぐで、柔らかなものなのだと感じられて、私は泣いた。

泣いた(どーん)

 

またね、この魚之助と藤九郎と言う、この作品の主役であるコンビの造詣が素晴らしいんですわ。

魚之助は先程も書いたような背景を持った人物。その艶やかさ、匂いたつような色気、美しさが読んでいてもどきどきするくらいに伝わってくるし、その人格の危うさ、と言う言い方は適切ではないかもしれませんが。

『役者でもない、女形でもない。だけど女の格好をしている。でも体は男。心はどっちかわからない』と言う部分からく危うさ、あるいはもの悲しさ、切なさ。

だけれどもそう言う部分をも吹き飛ばすくらいのパワフルさ、傲慢さ。そうしたキャラクターは、読んでいて本当に心を惹きつけられっぱなしでした。

 

そして藤九郎・・・この人の造詣がまた、実にこの作品においてはアクセント的な役割を果たしているのですよ。ここも本当にうまいなぁ、と。

やさしさの塊。まさしく藤九郎はそんな人なんです。甘っちょろい人。世間知らずな人。きれいごとを平気で口にできる人。そう言う人とも言えるかもしれない。

でもだからこそ、この作品にとってはほんと、救いみたいな人なんです。

このどろどろの愛が渦巻いている世界、それが描かれている作品においては、本当に救いみたいな人なんです。

 

だからこそ、甘っちょろくて世間知らずな部分もあって、きれいごとも口にするのに、ちっとも嫌な感じがしない。とにかく見ていて、読んでいて好感しかない。微笑ましい。

そんな彼だからこそ、魚之助に対してあんなにもまっすぐで温かな愛を与えることができたんだろうなぁ、と本当に、心の底から思うのです。

そしてそんな彼だからこそ、そんな彼から与えられた愛だからこそ、魚之助もそれを受け止めることができたのだろうなぁ、とやはり心の底から思うのです。

 

まぁ、でも、あれ。

本当にやさしい、やさしいやさしい男だからね、藤九郎。

ある意味、罪深い男とは言えるかもしれないね、ふふ。

 

そんなこんなで、それでは果たして2人の『愛』の行く末はいかに、と言うのが気になるところなのですが。

こちらに関しては続編『化け物手本』が今年の夏に刊行されましたね。

読みたいね、あぁ読みたいね、読みたいね。

そしてこちらはこの先もシリーズ化されていくのかしら。楽しみだわ。

 

はい。と言うことで本日は『化け物心中』の感想をお送りいたしました。

非常にリズミカル、かつエネルギッシュ。日本語の躍動感みたいなもの。それを存分に生かし切ったような語り口は、もしかしたら人によって好みがわかれるところかもしれません。

しかしそれを差し引いても、非常に魅力的なキャラクターたちが繰り広げる愛、愛、愛に塗れた濃厚な物語は、面白いの一言ですので、ぜひぜひ皆様、読まれてみて下さい!

 

ではでは。本日の記事はここまでです。

読んで下さりありがとうございました!