tsuzuketainekosanの日記

アニメや声優さん、ゲーム、漫画、小説、お仕事とのことなどなど。好きなことを、好き勝手に、好きなように書いていくだけのブログです!ブログ名の『ねこさん』は愛猫の名前だよ!かわいいよ、ねこさん!

秋と言えば中島敦~その作品について語る その1

今日から4連勤です。来週にも4連勤があるので、まずは4連勤、第1弾です。

くへっ・・・(力尽きる)

 

はい。秋です。そして秋になると、これまでの記事の中でも散々、ぼやいていましたが、私は中島敦の作品が無性に読みたくなります。

 

山月記』『名人伝』『弟子』この3作品は、私の秋にとっては欠かすことができない存在でございます。

 

そんなわけでこれら3作品が1冊に収録されている新潮社文庫を毎秋、読みふけっているわけなのですが、どう言うわけか、必ずその後、その文庫本を無くしてしまいます。そしてまた秋が来て『読みたい!』となって、けれどどこを探しても見当たらない。ならば購入するしかないな、と言うわけで(非常に文庫としては薄いので安いんですよ)多分、3冊はあるはずです、中島敦の新潮社文庫(どーん)

 

で。今年も、これも今までのブログ記事でぼやいていたと思うのですが、この3作品を猛烈に読みたくなる季節がやってきました。

しかし案の定、新潮社文庫が見当たらず、本と、どうしよう、今年も買わなければならないのか、と思っていたのですが。

 

先日。もはや開かずの宝箱状態になっている、ねこさんのジャンプ台と化している(笑)物置を開けてみたらですね。

その中から、1冊、見つかりましたよ、新潮社文庫!

いやっはーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

きれいな状態であるのを見ると、どうやらこれは、去年、もしくはおととしあたりに購入した、比較的、新しいやつですね。

と言うことは、多分、この物置の奥には、それより以前に購入した新潮社文庫が何冊か、眠っているはずです(遠い目)

 

はい。と言うことでですね。せっかく、無事、今年の秋も『山月記』『名人伝』『弟子』が読めることになった記念として、これから2回くらいにわけて、これら3作品について語る記事を書こうと思います。

 

中島敦が、その33年と言う、決して長いとは言い難い生涯の中で残された作品数と言うのは、それほど多くはありません。

しかもその中で私が読んだことがあるのは、見事に『山月記』『弟子』『名人伝』のみです。

『李陵』もね、頑張って読もうと、毎秋、チャレンジはしているんですけどね・・・どうも途中で断念してしまうのだよ・・。

 

はい。中島全作品を読んでいらっしゃる方にしてみれば、『たった3作品しか読んでいないよう奴が、作品について語るなんていい加減にしろ!』と立腹されるかもしれませんが・・・その点に関しては申し訳ないの一言でございます。はい。

 

まぁ、でも、この3作品に対する私の思いと言うのは、高校時代からずっと胸にある、私が抱えてきた思い出もあるので、いつも通り、生温かい目で見守っていただけると嬉しいです。

 

 

ではでは。1回目の今回、まずはこちらの作品からです。

・『山月記

・・・中島敦と言えばこの作品を挙げる方も多いのではないでしょうか。『文豪ストレイドッグス』でもの作品をモチーフとした異能、月下獣が登場しますし、どうなんでしょ、今でも高校国語の教科書に掲載されていたりするのかしら?

もうこの作品に関しては『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』ですよ。ええ。なんだろ、もう、人間としての心を、僅かばかりに残しながらも虎になってしまった男がとても他人とは思えなくてですね。高校の授業で初めて、この作品を知った時は勿論なのですが、今でもその思いはあります。

詩人を目指しながら、しかしその自尊心ゆえ、詩の腕を、たとえば師匠に就いたり、他者と交わりすることで磨こうとはしてこなかった。そうしてまた、他人はそうは思っていないだろうが、人の交わりを避けていたのはひとえに羞恥心からであった。

そうした自尊心、羞恥心ゆえに、自分はこのような姿になってしまった。そうしてもうすぐ、人である、この心すら失われていくのだ、と。

 

もうな。この、何と言うんでしょう。特に羞恥心ゆえに他者と交わろうとはしてこなかった、と言うのがもう、まさに、まさにその当時の、そして今の私そのままじゃんか、と。そうしてまた詩人を目指しながら、だけど自尊心ゆえ、自分の中の詩に対する自信が傷つけられるのが怖いゆえ、その腕を磨いてこなかったと言うのも、当時、小説家を目指していた私の心の在り方を見事に暴いているようで。

たとえ傷だらけの、つたない才能でも、それを磨き、信じ続けたために優れた詩人になった者たちもいる。にもかかわらず、自分は、自分自身の才能を信じ切ることができす、けれどそれを諦めきることもできず、結局、言葉を弄して自分自身を、そして周囲を欺き続けてきた。何かをすれば何かを成しえたかもしれないのに、何もせず、こうして虎へとなり果ててしまった。

その後悔、もうそれこそ身を焦がすような後悔、身悶えするような後悔と言うのは、もう想像するだけで苦しさすら感じるというか。それこそこちらも身悶えしてしまいそうになる、逃げ場のない窮屈な場所に押し込められたような感覚にすら陥りますよ。

 

そして何より人間の心を持ったまま虎に、獣になり果てたと言うのがな、もう、悲惨ですよね、これは。ただその最後に、唯一といってもいい友人であった男に再会できたと言うのが、またこれ・・・物語としても非常によくできているし。もしかしたらそのために、唯一の友人と再会し、そこで自分の抱えてきた思いを吐き出し、自分の人生を振り返り、そのあまりに大きすぎる後悔を吐き出し、なんというか自分の心の中にあった思いを昇華させるために、男は人の心を残したまま虎になったんじゃなかろうか、とも私は思うんですが。はい。

 

多分、男が虎になり果てて、だけど『この時』まで、すなわち唯一の友人だった男に再会するまで人の心を捨てきれなかったのは、失うことができなかったのは、そこに虎になってようやく直視せざるを得なかった、自分の生き方に対する思いがあったからなんだろうなぁ、と。

その後悔があった故に人の心が残りつつづけ、そしてそれ故に、最後の最後に唯一の友であった男に出会えた。

 

そうして再会を果たした後、その友人であった男は、一匹の虎が、白く光を失った月を仰いで咆哮するのを目に、耳にします。

 

物語の冒頭では、この友人であった男は、残月の光を頼りに道中を進んでいるのですね。うん。ところがラストでは、月は光を失っている。

 

月の光、それが虎になった男の中の、人としての理性、心、あるいは自分の人生に対する、自分の生き方に対するどうしようもない未練、後悔というものを表しているのであれば、このラストはまたどうしようもない切なさがこみあげてくるのであります。

でも、こう言う言い方は語弊があるのかもしれませんが・・・男になっては、虎になり果てられたというのは、救い、だと私は思うんですよね。うん。

人間の心を保ったまま、だけど虎であり、心の存在をどうすることもできないなんて、本当、想像しただけで怖いし、辛いもん。

 

せめて、せめてどうか、虎となった男が人の心を取り戻しませんように、と。

だけど、獣としての夢の中で、それが何かを理解することがないままに、ありえなかった自分の人生を、臆病な自尊心と尊大な羞恥心とうまく共存しながら生きてきた人生を体験できますように。それくらいの甘く、優しい夢は見られますように、と。

 

そんなことを祈らざるを得なかったラストなのですよ・・・はい。

 

なんでしょう。ここからは年齢を重ねた今だから思う感想なのですが。

 

自分の中にある、自分の生き方や人生に対する後悔・・・と言うか忸怩たる思い、どうにもこうにも昇華しきれなかった思いと言うのはですね。

ほんと、年齢を重ねるごとに、どうしようもなく自分の心に重くのしかかってくるんですよ。

いや、私も40手前になって初めてそのことに気が付いたんですけど(笑)

 

『いや、別に、全然、気にしてないもん』『私は別に、これでいいんだもん』と自分に騙し騙しに言い聞かせてきたことほど、でも実は全然、騙し切れてなくて、その歪み、長年、騙し騙しを装ってきたことで蓄積されてきた歪みと言うのは、ほんと、年齢を重ねていくごとにどんどん大きくなっていくんです。

そうしてどんどんどんどん、心にどーんとのしかかってきて、その重みがしんどくなってくるんです。で、『ほんと、私はいったい、何をやってきたんだろう』という後悔がのしかかってくるんですね。そうすると、それらが変な自虐だったり、自尊心を傷つけられたような感覚につながっていって、なんかもう、どうしようもなくなるんです。

 

いや、もちろん、これには個人差があるとは思います。

ただ最近、光浦靖子さんが『49歳になりまして』というエッセイを発表されましたが、その一部を読んだとき、ほんと私は『うわっ!うわっ!』ともう、なんか、自分の今、抱えている気持ちの一部をさらけ出されたような、そんな気持ちを抱いたのです。

 

うまく生きられない。自分の価値がわからない。認められ方がわからない。認められない。やりたいことはあるのに、誰かが上手にやっているように、自然にやっているように、それが自分にはなぜかできない・・・。

 

それでもどうにか、自分を騙し騙し続けている、その歪みと言うのはいつか必ず、自分に対して牙をむきます。

 

山月記』では、そうして牙をむかれた男は虎になり、光浦さんはその牙に対して『決心をする』という行動で対峙しました。

 

さて、私はどうするかなぁ。

 

いずれにしても、あれです。

対峙することだけが、真正面からぶつかることだけが人生ではありません。時にはそれが必要なことと言うのもあります。

逃げて、守って、生きる、と言うことも大切だというのは、どうか忘れないでいてほしいのです。

 

ただ、逃げても、逃げても、胸の中に付きまとってくる思いと言うのは、それはもしかしたら『あなた』が自分自身で対峙するなり、虎になり果てるなり、あるいは決心をするなり、なんなりをして昇華させなければならない思いなのかしもれないです。

 

勿論、私のように、それでも騙し、騙し続けて、年々、多くなって心に重くのしかかったくる歪みに耐えると言うのもひとつの手段ではあるのかもしれませんが。

 

騙すなら、せめて上手にに騙そう。完全にそれが『騙し』だった、とばれないように、完全に、きれいに騙しましょう。

それができないのであれば、むしろ『騙す』という手段は、あまりおすすめできません。以上、経験者より!(どーん)

 

あとなんでしょ。

最近、見た『ハイキュー!!』のアニメで田中さんが己を鼓舞するために心の中で叫んだ言葉、いや多分、ずっとずっと叫び続けてきたのであろう言葉『ところで平凡な俺よ、下を向いている暇はあるのか』と言う言葉が、この記事を書いている間、ずっと、頭の中にありましたね。

うん。

 

平凡は絶望かもしれないけれど、諦める理由にはならない、諦める理由にしてしまっては、それこそ終わりなんだろうな。それこそもう、自分自身、どうしようもなく悲しくなってしまうと言うか。

 

はい。と言うことでですね。

今回は『山月記』について語ってまいりました。

 

まぁ、でも、虎になった男にすら、虎になり果てたような男にすら、唯一の親友がいると言うのに・・・私ときたら・・・(遠い目)

 

はい。どうなんでしょうね。もし虎になり果てた男、李徴があのまま、唯一の親友だった男に再会することもなかったら、どうなっていたんだろうかなぁ。

それでもなお、人としての心は失っていたのか。

それとも、やっぱり、人としての心を失うことはなかったのか。

 

個人的には、後者のほうだと思うのですがね。

 

はーい。

そんな具合で次回は強烈な『名人伝』と、もう個人的にはめちゃめちゃめちゃめちゃ、どちゃくそ好きな話『弟子』について語りたいと思います。

よろしければ引き続き、おつきあいくださいね~。

 

では。今回の記事はここまでです。

読んでくださりありがとうございました~。