今日から3勤です。全身全霊で行きたくないのですが、とりあえずBLボイコミ関連の情報を、いつも読ませていただいているブログさんに教えてもらったので、それを支えに乗り切りたい思います。
こう言う情報がブログを通して知れるの、本当にありがたい(感謝感激雨あられ)
BLボイコミとかキャラソンとか聞きながらお仕事したい(何を言ってるんだ)
あと『忘却バッテリー』の先行上映、キャストトークパートの生配信視聴していたのですが。
メンバー的に期待しかしてなかったけど、期待を上回る狂乱っぷりでした。
狂乱(笑)
その狂乱を見せられた後に、PVを見たのですが『本当にさっきまで狂乱を繰り広げていた、あの面白いお兄さんたちと、キャラクターを熱く演じている人は同一人物なのだろうか』と言う感情に駆られました。
昨今、男性若手声優さんたちの勢いも凄いのですが、個人的には宮野真守さんや梶裕貴さんと言った、若手さん達よりも上の世代の方々のこうした狂乱っぷりを見ると嬉しくなります。ふふ。
てなことで11日なので読書感想文をお送りいたします。
予告です。次の読書感想文は予定で行くと3月21日、その日が公休ならその前後になりますが、おそらくは読書感想文をお送りできないです。
本を読んではいるのですが、多分、その日までに、と言うか感想書くことも含めてその数日前までには読了できないです。
できる気がしません。おっふ。
本日、感想をお送りするのは『アンブレイカブル』です。
本作品は『ジョーカー・ゲーム』シリーズなどでおなじみ、柳広司さんの作品です。文庫が発売されていたので購入しました。
・・・『ジョーカー・ゲーム』シリーズの最新作はどうなってのでしょうか・・・。
最新作である『ラスト・ワルツ』の単行本刊行から既に9年ですか・・・怖。
作者さんの筆が乗る、乗らないと言う部分も、特にシリーズ作品は大きいのだろうなぁ。そんなふうに思いつつ、やはりファンとしては『できるだけ早めに最新作、お願いいたします』と言う気持ちでいっぱいです。
お願いします(土下座)
ではでは、まずは『アンブレイカブル』の作品概要です。
本作品もまた『ジョーカー・ゲーム』シリーズと同じく、簡単にジャンル分けをするならばスパイ・ミステリー小説です。
小林多喜二や鶴彬、三木清と言った実在した人物が登場。戦時下、特高や憲兵と言った『力持つ者』『力を持つ組織』に屈することなく、自らの得意とするところで、自らの信念を世に放ち続けた彼らの姿。そしてその彼らを執拗なまでに追い続けるクロサキと言う人物の姿が、全4作の短編で綴られています。
三木清は名前を聞いたことがある程度。鶴彬に至ってはこの作品で初めて知ったと言う有様の私ですが、さすがに小林多喜二は名前は勿論のこと、何をした人か、何を残した人かと言うのは知っていました。
そしてまた彼がどのような最期を遂げたのか。その死には、どれほどの理不尽さ、残虐さが伴っていたのかと言うのも、学校の授業で習った程度の知識ではありますが知っていました。
多分、皆さんもそうではないでしょうか。
『蟹工船』の作者であり、プロレタリア文学。虐げられている労働者たちが直面している厳しい現実を描く文学の、代表的な作家の1人。そしてそれ故に、幾度なく逮捕され、最後には特高による壮絶な拷問、暴力によって亡くなった。
小林多喜二と言う人、その人生を説明、紹介するならばこんな感じだと思います。
つまり何と言うか、その人生を語るうえでは絶対的に『自らの信念を貫き通した代わりに、時の権力の理不尽な暴力によって命を奪われた』と言う事実がどうしてもついて回る。そしてそこから受ける『非常に不遇で、不幸で、悲劇的な人』と言うイメージもついて回るように思います。
ですが、です。
この作品の最初の短編『雲雀』で描かれている小林多喜二には、そんな悲劇的な雰囲気も、不幸の気配も、不遇だと感じさせるような匂いも、少しもないのです。
そこに描かれている小林多喜二は、ただただ穏やかで、皆に親しまれていて、普段は銀行員として働きながら、小説を執筆している、そんな青年でしかないのです。
『アンブレイカブル』のあとがきは作家の森絵都さんが書かれているのですが、そのあとがきの最初の一文。
『小林多喜二は悲劇的に死んだかもしれないが、決して悲劇的に生きたわけではない』
この森さんの一文を読んだ時に、私は『!』となりまして。
『まったくもってその通りだよな』と。
確かに小林多喜二の最期は、悲劇的なものであった。そこに至るまでの経緯含めて、理不尽と言う理不尽、その果ての暴力をその全身に刻み込まれ死んだ彼の死は、悲劇的と言う以外に表現しようがないものではあった。
でも、それと、小林多喜二の人生。彼が生きた時間と言うのは、彼の生き様と言うのは、決してイコールで結びつけていいものではないな、と。
森さんのあとがきの言葉に、あるいは『雲雀』で描かれている小林多喜二の姿に、強く思わされたのです。
で。
収録されている作品の順序とは異なりますが。
先に『カサンドラ』の感想を挙げますと。
この作品では、自分たちの足元で、周囲で起きていること。うごめいていること。その気配を、その聡明さ故に察していながらも、『自分たちは特別だ』とあぐらをかき、具体的な行動を起こしてこなかったインテリたちの敗北が描かれています。
どれほど、その事態に対して、気配に対して、真摯に向き合ってきたか。どれほど、その事態、気配を『我が事』としてとらえ、受け止めてきたか。
そんな後悔を抱いた時には、その事態は自らの眼前に存在していた。そして自らを飲み込もうとしていた、と言うラストの展開が、ただただ、それこそ悲劇的。
世界各地で起きている戦争。そこに対して、私もそうですが、ああだこうだと尤もらしい言葉を口にしながらも、その実、真剣にそれを『我が事』だとは思っていない、とらえていない、受け止めていない。
そこに対しての非常に強烈な皮肉すら感じさせるような作品で、目が覚めるような思いがして。しかし目が覚めてもなお、そこに広がっていたのは『『真実』なんてものは、瞬間瞬間に姿を、意味を変える』と言う真っ暗な世界で。
とにもかくにも背筋がひやりとするような、絶望的な気持ちに駆られるような作品だったのです。
その一方、この『カサンドラ』以外の3作品。先ほど紹介した『雲雀』、そして鶴彬が描かれている『叛逆』、三木清が登場している『赤と黒』はいずれも、決して絶望的な、悲劇的なだけのお話ではないのです。
特に最終話『赤と黒』ではクロサキが強い憧れを抱いていた。またその著書に衝撃すら受けた三木清と直接、言葉を交わすシーンが描かれています。
追う者としての立場にあるクロサキと、追われる者としての立場にある三木清。2人が会話するに至ったのは、自らを排除した組織の人間。その人間の逃亡に手を貸した末、三木清が逮捕されたからです。
クロサキにはそれが理解できない。
何故、自らを切ったような組織に属している人間の逃亡を助けたのか。
と言うか、私にも理解はできない。私だったら絶対にそんな、自分を切り捨てたような人間に対して、自らの命を危険にさらしてまで手を貸すようなことは、絶対にしないしできない。
だからクロサキは問うのです。その理由を。
これに対しての三木清の答え。そしてそこから2人のやり取り。
パスカルの『パンセ』の一説を引用して続く2人のやり取り。
そしてその最後を締めくくった三木清の言葉。
日本の敗戦、それを見越し、その中にあってなお、それでも一個人としてできることは何なのか。それはどこにあるのかと言うことを説く三木清の言葉。
その言葉のひとつ、ひとつに、人が人として生きることの崇高さ。そこにある立場を超えた、人としての尊厳。そう言うものが滲んでいるように感じられて。
もう胸がふるふると揺さぶられるかのような、そんな衝撃すら受けたのです。
で、最後にこの物語が配置されているからこそ。
小林多喜二、鶴彬がつないできたバトンを最後に受け取った三木清の言葉。
クロサキと交わし、クロサキに残した、否、すべての人に対して放った、残したこの言葉が最後に来ていることで。
確かに小林多喜二も、鶴彬も、そして三木清の死も、悲劇的で悲惨なものであることには間違いがない。
しかしその人生は決して悲劇的ではなく、極めて人間としての崇高さ、尊厳に満ち溢れていた。輝いていた。
そう言うものが改めて、こちら側の胸を貫いてくるんです。
そしてそう言うものが胸を貫くように伝わってくるからこそ、実は誰よりも悲劇的な人生を歩んだのはクロサキなのではないか。
天下国家のために、自分たちは職務に従事している。自分たちが取り締まっているのは、国家維持、治安維持にとっては良くない存在であると、そう信じていた、信じられていた。だからそこには、純粋なやりがいがあり、誇りもあった。
しかしいつからか、その歯車が狂いだした。
自分たちの手柄を挙げるために、ノルマと化したような検挙数を達成させるためだけに、手あたり次第の捜査、検挙が常態化するようになった。そこには初期の頃には確かに存在していた熱も、理想も、誇りも存在していない。
ただただ、形だけの、中身のない、形骸化した理想だけが独り歩きしている、勝手に歩き出して暴走しているかのような状態に、クロサキも疑問を感じていた。
『どこで間違ったのか』と疑問を感じていた。
それでもクロサキは、そこから抜け出せないまま生きるしかなかった。
いや、わかりませんよ。クロサキの『その後』は描かれていないので、本当のところがどうなのかはわかりません。想像でしかありません。
でも、少なくとも作中においては、クロサキは、小林多喜二や鶴彬、三木清のように『自分』の信念をなにひとつ、示すことなく、貫き通すことなく。示せず、貫くこともできずに、疑問を抱きながらも、少しずつ腐っていく組織の中で生きていった。
それしかできなかった。
燦然と輝く太陽のような小林多喜二、鶴彬、三木清の生き様が描かれてきたからこそ、逆にクロサキの人生には、どうしようもない陰。翳り。それがどこまでも付きまとい、それに支配されていた。それ故に悲劇的であったと言う感覚にとらわれるのが、構成として実に見事なのです。
そしてそれでありながら、しかしやはりクロサキもまた、もしかしたらあの時代の、暴走する正義の、その犠牲になった人間のひとりであったのかもしれないと言う思いが、わずかながらにこみあげてくるのも、また考えさせられるなぁ。
暴力はとても単純なものです。
単純だからこそ、それを利用する側はその力にどこまでも溺れていく。
そして単純だからこそ、ふるわれる側はその力にどこまでも恐れる。
タイトル『アンブレイカブル』は単純に訳すと『破壊不可能』と言う意味です。
どれだけ自由を封じ込められようとも。どれだけ身体の自由を奪われようとも。
人間が人間であることの証である、その尊厳が存在するところである、考えると言う行為。そこから生まれる無限の精神。
それは、単純であるが故に力強い暴力をもってしても、決して破壊することはできない。
たとえその精神の持ち主が、暴力によって命を奪われたとしても。
遺されたその精神を破壊することは、汚すことは絶対にできない。
それが放つ力強い輝きをまざまざと感じさせられた、そんな作品でした。
だからと言って何と言うか。小林多喜二に関しても、鶴彬、三木清に関しても、『その自らの崇高な精神の犠牲となって非業の死を遂げたのだ!』と、その死を美化するような作品でないことはご理解いただきたいです。
ちなみに『蟹工船』、皆さんは読まれたことありますか?
私は読んだことがありません。
勝手ながら『ものすごく暗そう』『読むと、労働嫌いな私にとってはいろいろと衝撃大きそう』『ってか単純に難しそう』と言うイメージを抱いていたのですが。
『雲雀』の中ではクロサキに依頼され、金のために小林多喜二を貶めようとしていた男。自らも蟹工船での過酷な労働に従事している男が、『蟹工船』を読む場面が登場するんです。
そこでは男が『蟹工船』と言う作品から熱量。エネルギーの塊みたいなものを感じ、また小説、物語として実に面白いそれであると感じている様が描かれています。
『蟹工船』はその過酷な労働の地獄っぷりを描いていながら、しかし不思議と明るさも感じさせる作品であると感じた男は、その理由を次のように推測しています。
『小林多喜二は根本的なところで人間と労働に対して信頼を寄せている』
この一文もまた、とても素敵で印象深い、そしてこの作品の本質を示しているかのような描写だなぁ、と思いました。
なので『蟹工船』読んでみたいです。
あと三木清の著書にも興味を持ったのですが・・・こちらは本当に難しそうだよなぁ。
と言うことで本日は柳広司さんの『アンブレイカブル』の感想をお送りいたしました。
ではでは。本日の記事はここまでです。
読んで下さりありがとうございました!