『ただ息をひそめて目を逸らして。そんなの死んでるのと同じ』
『息をひそめて目を逸らして、死んでるように、それでも生きている』と『死んだ』とでは全く違うのだと。
もしあの世と言うものがあって、そこに召されていたのだとしたら。
ノレアちゃんはそのことを痛感しているんじゃないだろうか。
それが本当に、本当に悲しい。
そして故意でなかったとは言え、父親の、人の命を奪ってしまったグエルくんはそのことを痛感しているからこそ、クソシャディクに死を許さなかったんだろうな。
ラウダとペトラちゃんも、ほんとこれどうなるんだ。
マルタンとニカ姉の間には、希望が差し込んできたような気がしなくもないけど。
頼むから皆、幸せになってくれよぅ・・・。
そんな『機動戦士ガンダム 水星の魔女』最新話でした。泣いた。
本題です。
なに詩人みたいなことを抜かしてんだ、と突っ込まれそうですが。
多分、今までにもブログ内で書いてきたと思うので許して下さい。
雪って、不幸に似ている、と私は思うんですよ。
特に雪の季節が来て、延々と降り続き見慣れているはずの景色を一変させるほどに積もったそれを目の当たりにすると、特に強くそう思うんです。
『降るだろうなぁ。天気予報でも降るって言ってたし』
そんな思いがあっても、でも実際にはその予兆らしい予兆はほとんどない。それまで晴れ空が続いていても、急に静々と空から落ちてくる。
それが数分、数時間で止む時もあるけれど、気が付けば1日、2日、3日と降り続けている時もあって、そしてずっとずっと、それは積もりに積もっていく。
予兆らしいそれもないままに、そっ、と日常に忍び込んできて。
そして静かにその存在を誇示し始め、見慣れた日常を一変させてしまう存在。
あっという間に去っていく時もあれば、完膚なきまでに一変させてなお、日常にその存在を残し続ける、とても気まぐれな存在。
雪って不幸に似ているなぁ、とだから私は思うんです。
今回、感想を書く『サハラの幸福者』を読んでいて、私はふと、そんな自分の思いを改めて思ったのでした。
そして願ったのでした。
どうか、どうか1人の青年の健気な願いが叶えられる日が来ますように、と。
その願いの先にある雪は、冷たく美しも、一切の淀みのない幸福である雪、そして雪景色でありますように、と。
そんなこんなで『サハラの黒鷲』シリーズの最新作『サハラの幸福者』の感想です。
こちらのシリーズ、概要をさらっ、と説明いたしますと。
作者は五月女えむさん。ジュネットコミックスピアスシリーズから刊行されています。
流民たちを束ねる青年『黒鷲』と、ひょんなことから彼と出会い、共に惹かれあい特別な関係となったアルキル。そして『黒鷲』の仲間やアルキルの関係者、更には『黒鷲』と敵対する人間たちの物語を描いた作品です。
『黒鷲』とアルキルの出会いを描いた1巻。そしてアルキルの過去を描いた2巻はいずれも『サハラの黒鷲』として刊行されています。
で、今回はその続き。巻数で言えば3巻に該当します。
頼むから刊行された順で読んでくれ(土下座)
ちなみに本作品はドラマCDも発売されました。
『黒鷲』は『くまちゃん』こと熊谷健太郎さん。そしてアルキルは佐藤拓也さんです。
・・・ぴったりすぎへんか?
またスピンオフ作品として『サハラの隻眼狼』と言う作品も刊行されています。
こちらについては諸事情の末、別記事で熱く語ることにしましたので、ここでは割愛。
さて。本作を語るうえで重要なポイントが『黒鷲』の名前です。
当たり前ですが『黒鷲』と言うのは本名ではなく通り名です。『黒鷲』の本当の名前、両親から与えられた名前はロキ。
しかしその名を知る者はごく僅か。そしてその名を知る者は、決して人前では口にしません。
何故か。それはこの作品では『呪い』が人を傷つけるための手段として存在しているからです。うっかり、その呪いを使う者に真名を知られてしまったが最後、『黒鷲』もまたその命が危険にさらされる恐れが出てくると言うわけですね。現にロキの父親は、その呪いが原因で命を落としています。
なのでロキの母親は、彼を守るために『黒鷲』と言う二つ名を与えた。そしてロキは成長するにすれ、彼の父親同様、その人格でもってして皆を束ねる存在になった。
けれどそれによって『黒鷲』と言う二つ名は、いつしかロキと言う、1人の青年の真名、あるいはその存在をも凌駕し打ち消すような。
そんな存在にまで成長していたのです。
けれどこれまでの『黒鷲』であれば、そのことに特別な違和感、あるいは、多分、寂寞のような感情。それを抱くことはなかった。あるいは抱いていたとしても、そこに大きく心を乱されることはなかった、と私は思うんです。
で、ここから『サハラの幸福者』の感想です。
『黒鷲』であり続けること。『黒鷲』がロキと言う真名、存在を飲み込むようにしてどんどん、どんどん大きくなっていくこと。
そのことを、だけど健気なほどに『俺は『黒鷲』だから』と受け止めてきていた、受け止めてこられていた『黒鷲』。
しかし今作品では『黒鷲』である、あり続けたはずの1人の青年の心が大きく乱されるのです。
そのことを突き付けたのは勿論、アルキルの存在です。
アルキルの言葉によって『自分が『黒鷲』であること。皆を率い、頼もしく、たくましく、強い存在でなければならない『黒鷲』と言う存在であること。だけどそれ以前に、1人の、ロキと言う名を持つ青年であること。人間であること』
アルキルと愛し合った後にアルキルの腕の中で、アルキルの言葉でそのことを突き付けられた『黒鷲』は虚を突かれたような、自分の隠していた部分に触れられてしまったような。そのことで傷ついたような。だけど実はその部分は、本当は誰かに気づいて欲しかったのだと、自分自身も初めて気が付いたような。ちょっと安心したような。でもやっぱり少しだけ傷ついたような。そんな表情を見せるんです。
ここの表情が、もう、もう、もうもうもう。
初めて読んでこの表情を目の当たりにした時も、そして何度、読み返してこの表情を目の当たりにしても、私はその度、言葉を失うんです。
この表情を的確に伝える言葉を、表現を、私は知らない。持ち合わせていない。
だからこそ、それくらいにまで『黒鷲』が、そしてその中で、小さな灯火のように存在し続けていたロキと言う存在が抱え続けていた気持ちの複雑さ。気持ちの重さ。
それを突き付けられたような気がして、胸が強く、強く締め付けられるのです。
『サハラの幸福者』と言うタイトル通り。この物語におさめられているのは様々な出来事に感情を乱されながら、それでも自分が愛する人のため、愛する存在のため。信頼する仲間のため。叶えたい願いのために不器用に、けれど少しずつ歩を進めていく人間たちの姿です。そうした人間たちが生きている姿です。
その姿は傷つき、危険にさらされ、ままならぬこともあるだろうけれど、それでもやっぱり『幸福である』と言い切れるのだと、私は思うんです。
何より彼らは孤独ではない。『黒鷲』も真の意味では孤独なのだとは思います。しかし真の孤独に落ちる、その寸前で、彼はアルキルに出会うことができた。だから『幸福者』なのだと思います。
しかし同時『幸福者』であるからこそ、気づいてしまう、どうしようもない悲しみ。孤独でないからこそ、他人の言葉、他人の考え、他人の態度、そこからどうしようもなく突き付けられてしまう孤独。
『幸福でなければ知らずに済んだのに』と言う、そうした感情。あるいは『真に孤独であれば気が付かないままだったのに』『そちらのほうが、ずっとずっと幸せだっただろうに』と歯を食いしばりたくなるような感情。
それに直面した『黒鷲』、あるいは『ロキ』
1人の青年の、2人の中の存在の姿に、私は本当に本当に胸を強く揺さぶられ、たまらない思いに駆られたのでした。
そしてだからこそ『サハラの幸福者』と言う作品のタイトルが、深く、深く胸に染み入っていったと言いますか。はい。
また『サハラの幸福者』に至るまでに届けられてきた物語。積み重ねられてきた物語。その厚みのようなものも、ひしひしと感じさせられたのであります。
あとなんだろ。『黒鷲』がアルキルに抱かれると言うこと。それは『黒鷲』にとっては、自らの輪郭。『黒鷲』であり、だけどロキでもあると言う自身の輪郭。明確な線引きがなされていなければならないはずで、だけど時折、怖くなるくらいに淡くなってしまうその輪郭。
それを確かめる、確かめられる唯一の行為なのかもしれないなぁ、と言うのを強く感じました。はい。
後ですね。今回は『黒鷲』を良く思わず彼と敵対しているグラン、ロゥも登場しています。ページ数で言えば14ページほど、本当に少ない出番なのですが(言ってやるな(笑))
ただその少ない出番でグランの口から吐露される本音。『黒鷲』への思い。そしてそれを受けてロゥが口にした言葉。
これが見事に『真の意味では孤独だけれど、そこに落ちる寸前でアルキルと出会った』『だけど出会ったことで気づかなければ心穏やかでいられたであろう感情を突き付けられた』状態にある『黒鷲』と対比関係にあるのが、実に素晴らしいんです。
そしてだからこそ、そのグランを『心底うざくて呆れるけれど』と冷たい目で見下ろしつつ、それでも『ここまでみっともなく諦めないのは凄いんじゃない?』と思ったロゥの姿、言葉にも、私はめちゃくちゃ胸を打たれたのであります。
ロゥに煽られ『僕のことを勝手に決めるな』と言い返したグランの言葉は、あるいは『黒鷲』が『黒鷲』として呼ばれるたびに、『黒鷲』として何かを求められる度に、実は心の奥深くで言い返していた言葉なのかもしれない。
そしてその言葉を受けて素晴らしい、本当に素晴らしい言葉、私は心底、この言葉に勇気づけられたような思いがした、そんな言葉を返したロゥのその言葉は、あるいは『黒鷲』であり『ロキ』でもある1人の青年を腕にアルキルが口にした言葉と意味は同じなのかもしれない。
そんなことを感じさせるくらいに、このグランとロゥのシーンは物語の構成として実に素晴らしいものだったし、非常に読みごたえがある場面でした。
なんだろ。だからこの2人は、もしかしたらもしかして、今とは違う状況で、違う出会い方をしていた『黒鷲』とアルキルなのかもいれないな、とも思ったりで。
グランとロゥも良いですよね。互いが互いの足りない部分、圧倒的に足りていない部分を補いあえる、最高の相性だと思うの。
ちなみにドラマCDではグランが木島隆一さん。ロゥが小林千晃さんなのか。
びったりすぎやしないか?(2回目)
え?なに?『サハラの黒鷲』シリーズのドラマCD、原作からキャストさん、引っ張ってきた感じ?(もはや意味不明)
あとこれはこのシリーズに限らない話なのですが。
五月女先生の絵、本当に、本当にめちゃくちゃ美しいんですよ。
もうね、アニメ制作会社で言えば京都アニメーション(断言)
本当に本当に、シーンによっては息を呑むくらいに、見惚れるくらいに美しいし、全体的に見ても作画の崩れがない。
だから読み始めてから読み終えるまで、変なところで作品の世界観、物語の流れ、それらを堪能している時間を邪魔されない。これは本当に読者としては嬉しい、ありがたいかぎりなのです。
あと今作品。今までのシリーズ作品に比べると、BL要素満載のシーンは少なめです。
五月女先生もあとがきで言及されていらっしゃるのですが。
そんななので同人誌で最後まで書く予定、だったとのこと。
ですが最終的にはBOY’Sピアスに連載され単行本として刊行されたのですが、いや、なんか、これは割と個人的には『BL要素てんこ盛りだよっ!』が売りと言う印象が強い(いや、あくまで私個人の勝手な印象ですけれどね)BOY’Sピアス的には、ほんと結構なチャレンジだったんだろうなぁ、とも思ったのでありました。
担当さんや編集部さんの、この作品、このシリーズに対しての信頼があったからこそなんだろうなぁ。
ファンとしてはこれもまた、ただただ『ありがてぇ』の一言。
『幸せ』であるからこそ、気づいてしまう、気づけてしまう『不幸』もある。
降る雪、それを目にしたいと願いながら、しかし同時、それが許される立場にないことも十分に知っている1人の青年。その中にある1人だけど2人の存在。
その青年にかけられている、何よりも重い『呪い』。そこから彼を解放したいと願う1人の青年。
あるいは『愛すること』の難解さに愚直に戸惑う青年。『愛されること』の喜びを素直に受け入れる青年。『愛すること』のままならなさに打ちのめされる青年。
そしてみっともなくも決して諦めきれない思いを胸に、再度、立ち上がった1人の青年。
その青年を嘲笑いながらも、その青年の『みっともなさ』に賭けてみることにした1人の青年。
皆が皆、幸せで、孤独で、悲しみも苦しみも抱えていて、そして色合いは違えど絆で結ばれていて。
だからこそ、1人1人が、1人の人間として存在している。1人の人間として、とてもまっとうな孤独を抱えているようにも思えて。その姿にどうしようもなく私はひきつけられてしまうのです。
そして今回は出番がなかったけれど、怖いよ、怖い。
『黒鷲』大好き!大好きすぎて、可愛さ余って憎さも百倍なマダムの動向も気になるところであります。
それぞれの思いを胸に、さぁ、今後、物語はどう展開していくのか。
あー・・・もう今から楽しみでしかない。
ってかこのシリーズのラストを見届けずして、私は死ねない。
死ねない(真顔)
はい。と言うことで本日は『サハラの黒鷲』シリーズの最新作『サハラの幸福者』の感想をお送りしてまいりました。
最後になりましたが、やはり今作品もこのシリーズらしく、がつん、と胸を打つ、重めの人間ドラマが繰り広げられている作品ではあります。
その中にあって。
・ショタロキの可愛らしさ。もはや天使級。
・えちえちな紐パンの謎が解ける電子書籍限定書き下ろし漫画。
この2つも、やはり最高だったこともお伝えしておきます。
100%下心、最高だね!
グッジョブ!
ではでは。本日の記事はここまでです。
読んで下さりありがとうございました!