本日、感想をお送りするのは桐野夏生さんの『インドラネット』です。
2021年に単行本として刊行された本作品。この後、すぐにご紹介いたしますが、あらすじからして『こんなのBLじゃん!』と言う予感しかなかった私は、文庫化されるのをそれはそれは楽しみに待ちわびていたのであります。
ではでは、早速あらすじを。
本作の主人公は八目晃。何ひとつ取り柄がない自身に対して強いコンプレックスを抱いて生きてきた晃は、現在、安月給の非正規労働者として冴えない毎日を送っています。そんな晃の唯一の自慢にして誇りは、高校時代、他者を圧倒するような美貌とカリスマ性を持ち合わせていた野々宮空知、そしてその美貌の姉妹たちと親しく付き合っていたと言うことです。
しかしその縁も高校卒業と同時に遠くなっていき、ついには空知からのメールも途絶えてしまいます。それ以降、空知の行方はわからないままと言う状態でした。
空知たちと過ごした思い出、輝かしい時間を未だ忘れることができない晃は、空知がカンボジアで行方不明になったらしいと言う情報を知ります。そして野々宮家の関係者から空知の姉妹の行方を捜索して欲しいと依頼された晃は、単身、カンボジアに渡るのですが・・・と言うお話です。
BLです。違うけどBLです。
圧倒的美貌とカリスマ性を持った野々宮空知×冴えない自分に強いコンプレックスを抱き続けている八目晃のBLです。
違うけど。
はい。てなことで感想へと参りましょうか。
いやぁ、面白かったです。晃が空知を、そしてその姉である橙子と妹である藍、その行方を捜すために奮闘すると言う物語なのですが。
この晃と言う人物が、まぁ、なんだろ。私にはとても他人とは思えなくてですね。
自分に自信がない、それ故の強いコンプレックスだったり。労働をはじめとして、労力を必要とすること、その一切に対する著しい責任、やる気のなさだったり。日々の生活すら自堕落であったりするところが、本当に私は『あ、これ私じゃん』状態で。
空知たちと親交があった高校時代。晃の人生の中、今のところ最も輝かしい時代に未だ縋りつき、そこから逃れられずにいる。今なお、その輝きの残滓に幻影を見続けている。そう言う過去に対しての執着と言うところも、私には共感しかなかった。そしてその気持ちも、私には痛いほど理解ができた。
だから最初の内は『あぁ、こいつはダメだ』『でも私もこんな感じだけどな』とひきつり笑いで読み進めていたんです。
ところが物語が進むにつれ、異国の地で空知たちの捜索にあたる晃は成長していくんです。逞しくなっていく。肉体的にも、精神的にも。
それだけ晃は様々な出来事にもまれていくんです。時には命の危機を感じるような出来事すら起きる。あるいはそもそも、何のあてもなく異国に飛んだ晃には、衣食住の保障すらないわけですからね。
でもそれを、たまたま知り合った人からの助けで得ることができた。そう言う人との出会いと言う面においても、晃はもみにもまれていくんです。
その中で当然、思いは揺らぎそうになる。ところどころ『もうこれでいいや』的な感情が吐露するのが『あぁ、でもこいつ、やっぱり変わってないなぁ』と笑うしかないんですけど。
それでも最終的には橙子、藍は勿論なのですが、誰よりも何よりも空知を思う。
彼に会いたい。どうにかして彼の今を知りたい。そう言う気持ちを強くするんです。
あぁ、と思いましたね。
やっぱり人間、慣れた地に留まって、慣れたことだけやって、慣れた時間だけを繰り返していたらダメなんだなぁ、と。
『ダメ』と言う言葉は適切でないかもしれない。『それでいいよ』と言う方なら、それでいいのだし、そもそも生き方に『ダメ』も『良い』もないだろうから。
ただなんだろう。
『変わりたい』『このままじゃ嫌だ』『何かしたい』と思い続けていて、でも何にも行動を起こしていない。結局は『慣れ』のぬるま湯、安全地帯から最初の一歩すら出していない私には、この晃の姿には様々なものを突き付けられたような気がしました。
空知のために。ただその思いだけで、紆余曲折ありながらも一歩を踏み出せた晃が、そんなふうに思わせてくれた人と出会えていた晃が、途方もなく羨ましい。
なのでこの作品。異国の地で奮闘する日本のダメダメ青年の奮闘記。また現地の雰囲気が濃厚に感じられる旅行記。そんな味わいも楽しめる作品です。
そしてその中でもしっかり、晃が空知たちの今に近づいていく様子も描かれています。
晃の奮闘、それが時に『おいおい』と苦笑いするように描写であることも多いのに対して、空知たちの今。そこに潜んでいる『何か』、それらの描写は非常にスリリングで、しかも予想がつかない。
読者は晃と同様、その『見えてきそうでなかなか見えてこない何か』に振り回されるしかないんです。でも『見えてきそうでなかなか見えてこない』から、いつ、どこで、どんな形で振り回されていた、振り回されているのかもわからない。
その気色悪さ、闇深さと言ったらですよ。
少しネタバレにはなってしまいますが。
物語中、晃はどうにかこうにか橙子と藍と再会を果たすことが叶います。
そしてその果てに、晃は空知に現状について衝撃的な事実を知ることに。
更に自分が異国に到着してからの出来事。そこに張り巡らされていた数々の事実も突き付けられるのです。
その事実に打ちのめされた晃は、ある思いを胸にとある地へと向かいます。
ここからの展開。そしてラストの展開が・・・もう、言葉を失うそれだったと言うか。
やっぱりネタバレになっちゃうので、なかなか詳細まで書くのは難しいのですが。
なー・・・なんかね、ほんと甘美さすら感じさせる流れであり。また『救い』とは何か。そんなことを感じさせる流れでもあり。
めちゃくちゃ胸が締め付けられてからの、このラスト。
『容赦ないなぁ、桐野さん』ともはや呆然。
でも、どうなんだろう。どうなんでしょう。読まれた方はどう思われますか?
容赦はない。でも晃にとってはあのラストは、幕切れは、それこそある種の『救い』のように思えたのは私だけでしょうか。
タイトルの『インドラネット』とは橙子、空知、藍の父親が遺した言葉に登場する言葉です。
インドラ神、すなわち帝釈天の網のことを意味しているとのこと。もう少し解釈を広げると、世界そのものを覆う網であり、その網でつながっている宝石は、無関係に見えても関係性がそこには生まれている。
自分たちの子どもは、どこに行っても繋がって光るインドラの網に絡まる宝石だ。
インドラの網にある宝石は、そのひとつひとつが、他の宝石を映し出す宇宙だ。
3人の父親もそんな言葉を遺しており、その言葉を知った晃は『宝石になれない自分は、せめて宝石を繋ぐ網になりたい』と痛切に願うんです。
『宝石になれない自分』と言う言葉が、思いが、本当に晃らしい。辛い。
でも、現実はそんな生易しいものじゃなかったんです。
世界を覆うインドラの網。それで繋ぎ止められた宝石は、意識しようがしまいが、互いが互いを映し出す鏡になっている。すなわちそこには『縁』『関係』が発生している。
『縁』や『関係』がやさしく輝きに満ちたものだけであれば素敵ですよね。
でも決してそうでないことは、私たちは日々の生活の中で、あるいは耳目にするニュースを通して嫌と言うほどに知っているはずです。
本作で言えば、インドラの網は宝石たちを、その運命を無慈悲に縛め、がんじがらめにしていた。
宝石たちは知らず知らずの内に、インドラの網に絡めとられていた。
曲がりなりにもそれなりの成長を遂げた晃。
『宝石になれないなら、せめてインドラの網になりたい』と願った晃。
その晃の成長を嘲笑うかのような、そしてその願いをある意味では叶えたかのような皮肉的なラスト。
そこにあるのは『インドラネット』が意味する、どうしようもない現実。あるいは闇深さ。底知れぬ闇深さ。怖さだと、私は思い知らされました。
タイトルが『インドラネット』だからこの言葉を用いましたけど。
晃たちを繋ぎ、そして飲み込んでいったのは、作中ではもっと具体的なものとして描かれています。
具体的なんです。
でも同時『じゃあ、それを言葉にすると?』と聞かれると迷っちゃう。
ただもう、手垢のついた言葉で申し訳ないのですが『闇』であり『欲』であるとしか言いようがないと言うか。
目に見えている。でも目に見えない闇であり、欲であり。
そして『個人』の思いなど、尊厳など、簡単に踏みにじるものであり。
『個人の人間的成長?何それ、美味しいの?』的な。
だからこそ、なんですよね。
あまりに衝撃的なラストを読み終えてなお、私の胸に募ってきたのは、晃と空知が確かに過ごした輝かしい時間、高校時代。
その輝きであり、あるいは、空知への思い一新で異国に飛んだ晃の成長であり、その中でより一層、強くなっていった空知に対する思いであったり。
それらを思えば思うほど切なさに胸が締め付けられ、でも同時『結局、一個人の人生なんて、どうしようもなくなるようにしかならないんだな』と言う、強い無力感、空しさにも駆られたと言うか。
なー・・・なんかほんと。
晃にとって空知はただ1人の存在だった。
でもある存在、ある力、ある闇でありある欲にとっては、空知は空知じゃなくても良かった。
宝石の代わりはいくらでもいる。光り輝いていない石ころでも、それを『宝石』と名付け、呼び、そう認識すればそれは宝石になるのだから。
誰でも良かったってわけです。
なー。なんかほんと。それを突き付けられた結果。
『世界』の中で『私』が生きる意味。日々、曲がりなりにも奮闘していること。
そこに空しさを感じずにいられないのは、私だけでしょうか。
生きることにますます消極的になりそう。
いかん、いかんぞ!
何でしょうね。晃がもっと最初から人間的に成熟した、洞察力も推察力も持ち合わせている、思慮も配慮もできる人間だったら、結末は変わっていたのかなぁ。
晃が今の晃になった理由みたいなもの。それって何なんでしょうかね。
それを考えると変な話、晃は生まれた、この世に生を受けた瞬間から『こうなること』が決まっていた。そんな気すらするんですけど。
それこそインドラの網の力と言うか、無慈悲さと言うか。
そんなこんなで本日は桐野夏生さんの『インドラネット』の感想をお送りいたしました。
極上の青春小説にして旅行記としての味わいもある。そして緊迫感あるミステリー、国際小説的な魅力にも溢れた作品。
桐野さんらしい容赦のなさが暗く光る、まさに宝石のような作品です。
『高校時代の男が忘れられずに、今なお、それに人生、引っ張られてる』と言うダメ男が登場するBL好きな方は、特に楽しく読んでいただけるかと思います。
どんな薦め方!
いや、それを抜きにしても、ほんと個人的にはいろいろ考えさせられ、考えさせられたからこそ絶望にも近い投げつけられた、そんな1冊でしたので、ぜひぜひ読まれてみて下さい。
面白いのは確かだよ!
ではでは。本日の記事はここまでです。
読んで下さりありがとうございました。