私と言う人間の未熟さ、社会性の無さが露骨に出ている内容です。
ってか、まぁ、アレです。個人的記憶と思い出の記録です。
11月24日と25日ですね。
怒涛の4連勤3連続、その合間にあった、私が希望休で作った連休です。
その日の、昼前です。起床してブログを書きつつ『よーし。この連休中にBLCD聞いて、ゲームもめちゃくちゃして、調子が良かったらSideMのブルーレイも視聴して、ブログのストックも3つくらい作るぞ!』と意気込んだ矢先です。
階段下から母の呼ぶ声がして。
『おばあちゃんが亡くなったって。だから今晩、お通夜。明日1日、お葬式だからね』
『・・・は?・・・え?』
すいません。この時点で『いや、私、連休なんだけど』と言う本音をどうにか飲み込むことができた私を、誰か褒めてやって下さい。嘘です、ごめんなさい(土下座)
てなことで。
タイトルにも書きましたが、24日と25日の連休にお通夜とお葬式に参列したお話です。
ちなみに。後で調べたら、休みじゃなかったなら。もし、その日が仕事だったら。つまり私が会社に『祖母が亡くなりましたのでお休みを』と連絡していたら。
忌引き休暇として1日の公休と2日の有給で休暇がとれる仕組みになっている。また香典として、具体的な金額は差し控えますが、会社からも支給があったそうです。
正直、後日、それを知った時には言葉にならない感情に一瞬、駆られました。
おばちゃん、本当にこんなクソみたいな孫でごめんなさい(土下座)
亡くなったのは父方の祖母です。父の兄、つまり伯父さん家族と同居していたのですが、7年ほど前に認知症を発症。病状が悪化したのを機に施設に入居。以降は何を話しかけても無反応。勿論、自分から話すこともない。
ただしご飯を乗せたスプーンを口元に運んでいった時だけは、無言のまま口を開けて食事を口にすると言う驚異の食欲、そして生存本能を見せていたとのことですが、1か月前ほどには『もう長くはないらしい』と言う状況になっていたそうです。
それでも食欲だけは衰えることなく、亡くなる前日も、僅かな量ではあるものの食事を口にしていたとのこと。
施設の方が夜中0時に巡回された際には、すぴーすぴーと寝息を立てていたらしいのですが、2時間後の2時に巡回された際には、既に息をしていなかったそうです。
聞いて驚いて。御年99歳!
おばあちゃん、実は若い時、占い師さんに『あんたは20歳になるまでに死ぬ』って断言されたそうなんです。ずーっとそれを自慢してたんですけど(笑)
それがどうですか!兄弟姉妹の誰よりも長く、そして今からほぼ40年前に亡くなった旦那さん(元々はおばあちゃんのお姉さんの旦那さんだったけれど、そのお姉さんが亡くなられたことで、妹であったおばあちゃんが後妻さんとして迎えられた)よりも長く、その人生を歩まれたじゃないですか!
しかも最期はまさしく『眠るように』息を引き取ったと言う。
大往生!
『あのー・・・すいません。いや、全然、参列したことがないもんだから。ちょっと教えて欲しいんですけど(訳→できるだけ手短に済むとありがたいのですが)』と、私がいちばんに母に聞いたのが『お通夜って何時間くらいあるものなんでしょうか?』と言うことでした。
お葬式になると、1日だと言うのは、なんとなくイメージでもわかる。でもお通夜って、どうなんだろうか。そこが気になって聞いてみたら母からの返答は。
『一晩中だよ。『夜を通す』って書くでしょ?親族一同で、寝ずの番で、亡くなられた人を見守るの』
『は?え?嘘でしょ?』
嘘ではありませんでした。いや、と言うか。本来は、それこそ昔はそうだったようです。おじいちゃんが亡くなった時はそうだったようです。
でも時代の流れと共に、弔いの儀式も変化していっています。
てなことで結果としてはお通夜は3時間程度で終了いたしました。むしろその前、おばあちゃんが亡くなったと知ってからのいろいろな準備の方が、私としては大変でした。
あれほど事前に、衣装合わせ、靴合わせをしておけと母に言われていたのに(汗)
ただし喪主であり長男である伯父さんと次男の父は寝ずの番として、葬祭ホールに宿泊しました。
翌日のお葬式は1日、朝の10時から夜20時くらいまでありました。
家族葬だったので、参列していたのは伯父さん夫婦。その娘さん、すなわち私から見たらいとこ(姉妹)の家族。更におばあちゃんと親交のあった近所の方。伯父さんの奥さんのお姉さん。そして私の家族で、全員で16人くらいかな?
さて。私がおばあちゃんの親族と顔を合わせるのは、実に20数年ぶりです。
両親、特に母親からは『向こうの子は医療の仕事に就いて、結婚もして子どもも育てているのに。あんたは出てくるだけ恥ずかしいだけだわ』とも言われていて、私も変なコンプレックスを勝手に持ってしまっていたので、多分、22~23歳くらいが最後だったように記憶しています。
なのでいわば私は、親族の中ではSSRキャラだったわけです(笑)
だからもう、私としては『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。絶対にいろいろと詮索される。怖い。どうしよう。恥ずかしい。もう消え入りたい。怖い。んがあぁぁあぁぁぁ!』と言う感じだったのですが。
自意識過剰でした。
ってかそもそも悲しみの場だもん。そんな話すこともない。顔を合わせて『あら、久しぶり』『よく来てくれたね。元気だったか』で終わりでした。
ただ、ですね。
いとこの子ども。だから私から見たら甥っ子、姪っ子になるのか。
総勢、男の子が4人、女の子が1人なんですけれど。中学3年生から小学4年生くらいまでの子どもちゃんだったんですけれど。
この子たちの『この人、誰?』と言う表情、視線が、めちゃくちゃ可愛かったです(笑)
私がこの子たちに会ったのは、間違いなく初めてなんです。うん。
なんですけど、小学6年生の男の子に勇気を振り絞って『おばちゃんのこと、知らないよね。初めて会うもんね。よろしくね』と挨拶したら。
『初めてじゃないよ。小さい頃、会った覚えがあるよ』と満面の笑みで返されました。
きゅん。
『会ったことあるわけがないんだよ』と言うツッコミも霧散するほどの、満面の笑みに、私、一瞬でノックアウト。
で、ですね。
中学3年生の男の子、中学1年生の女の子は、やっぱりもう『お兄さん』『お姉さん』って感じなんです。基本、言葉少なだし、空き時間とかもスマホを弄ってる。
でも小学生組の3人の男の子。この子たちは、やっぱり小学生男子なんですわ(笑)
まぁ~、可愛いの。住職の方が読経されている間は、ちゃんと大人しくできているんです。でもそれが終わった途端、もうダメ。暴れちゃうのね。
で、この3人の内、いとこのお姉さんの方の子どもちゃんである兄弟。
SSRキャラと化していたことに、内心、ビビりまくっていた私の心を一瞬で『きゅん』とさせた男の子とその弟くん。
この2人が特にやんちゃで。満面の笑みで騒ぎまくってるんですわ。
その無邪気さがただただ『可愛い』の一言でして。
お通夜はともかくとして、お葬式って基本、その半分くらいが待ち時間を占めているんですね。
何もすることはないし、何をするわけにもいかないし。ただただ待合所で椅子に座って、ぼーっと時間が流れていくのを待つしかないわけです。
なんですけど、この兄弟がその間も、執拗にお茶を勧めてきたり(笑)、『ちょっとあっち行ってみようぜ』とホール内を探検し始めて、いとこに怒られていたり。
食事の時も『お母さん、これ食べて!』と嫌いな食べ物を持ってきたかと思ったら『逆にこれもらってくわ!』とお肉系のおかず、かっさらっていったり。
何よりこの兄弟が、どう言うわけか、私の父を猛烈に気に入りまして。
父にちょっかいをかけては、父も嬉しいもんだからちょっかいを返す。それに対して2人がげらげらと笑う。父がその場から姿を消すと『○○(父の名前)はどこ行った!退屈だ!』と2人が父を探し回ると言う光景が繰り広げられ。
その明るさ、にぎやかさのお陰で、待ち時間における『待つしかない』ことの虚しさが軽減されたと感じたのは、絶対に私だけではないはずです。
お別れの時にもこの兄弟。
私の父親に握手とハイタッチを何度も求めると言う親愛っぷり。
『また会おうな!』と言う約束まで交わすほど。
一体、私の父の何が、この兄弟の、どこに突き刺さったのか・・・。
『父よ。シルバーの仕事もキャンセルが続いていて、毎日、暇やろ。あの兄弟の相手を仕事にしたらどうだ。脳にも心にもいい刺激になるぞ』と私は心の底から思いました。
でもまぁ、小学生だからなぁ。
きっと中学生になったら、こんなことはないんだろうなぁ。
それを思うと、少し寂しい気が。
その時は父よ。調子に乗って、自分からちょっかいかけに行っちゃダメだよ。
あと甥っ子ちゃんで言えば、いちばん年長の中学3年生の子。
眼鏡をかけて、もう『真面目!』と言う雰囲気漂う、でもはにかんだ表情が実に少年らしくて『あぁ、きっと素敵な青年になられることだろうなぁ』と私の妄想を刺激してくれた(本当にごめん(土下座))この子がですね。
終始、落ち着いた雰囲気を見せていたこの子がですね。
おばあちゃんが荼毘に付されるのを見送った後。つまりおばあちゃんの火葬が終わるのを待っている間ですね。
その時になって、急にボロボロと大粒の涙を流し始めて。
みんなが『どうした?どうした?』と心配する中、『何でもない』と言いつつも、涙は止まらず。ずっと泣いていて。嗚咽が出てくるくらいに泣いていて。
その内、みんなも『泣かせておくのが良いよね』と言う雰囲気になって、見守っていたのですが。
多分40分くらい、1人で、ひたすらに泣き続けていたこの子の姿に、私は胸を射抜かれたような思いがしました。
亡くなったとは言え、当たり前ですが人の形をして、棺の中に納まっているおばあちゃん。眠っているようなおばあちゃん。
そのおばあちゃんが『焼かれる』と言うのが、彼にとっては衝撃的だったのかな。
中学3年生と言う、多感な時期の彼にとっては、ショックだったのかな。
そんなふうに、私はこっそりと思ったのですが。
いずれにしても、その心。衝撃に打ちのめされたのかもしれない、その心。
その心からわきあがってくる、大粒の涙を流す源になった感情。言葉にできない感情。
それらは、どうか大切にして欲しいなぁ、と勝手に思ったり。
ごめんな!
本来なら、ちゃんと親交があったら、甥っ子ちゃんも姪っ子ちゃんも、おばさんからお年玉とかいろいろ、もらえたはずなのにな!
こめんな!こんなおばちゃんで!
ってかどの子も、マジ可愛い!良い子!
お年玉、あげたい!
あげに行くのは怖いから、家までもらいに来て!
父にも会いに来てやって!
さて、それでは、ここからはおばあちゃんの話です。
私がおばあちゃんと最後に会ったのは、大学卒業してしばらくしてからのこと。冒頭にも書いた通り、年齢で言えば22~23歳くらいの時だと思います。
おばあちゃんは畑仕事が好きで・・・と言うより畑に行く道中、あるいは畑に行ってから、出会う人と喋り倒すのが好きで。あとコーラスの集まりにも参加していたんです。それくらい元気な人だったんです。
でもですね。私が20歳くらいの時だから・・・おおっ、それでもおばあちゃんが80歳になるかならないかの時なのか。
とにもかくにもそれくらいの時に、その畑に行く道で転倒してしまって。大腿骨を骨折してしまいまして。
それで、自分の好きな時に畑に行くことも難しくなってしまった。コーラスの集まりに参加することも、ぽつぽつ歩いて時間がかかってでも、近くの小さなお店に買い物に行くこともできなくなってしまった。
だからそう言うこともあって、しばらくの間は、私は月に1~2回くらい、おばあちゃんのもとを訪ねて一緒に買い物に行ったりしていたんです。
大学卒業した当時の私はロクに働いていない人間でしたから(笑)
時間だけはめちゃくちゃあった。そして私が来るとおばあちゃん、喜んでくれるもんだから、私も嬉しくて、訪問していたんです。
でもある時ですね。母親にそれを笑われまして。失笑と言うか。『働いてないからおばあちゃんの相手ができるんだよ』と。『だから嬉しそうな顔して行かないの』と。
おばあちゃんは確かに喜んでくれていた。
そして伯父さん夫婦も、買い物に行った先でおばあちゃんのことを知っている人も、皆、喜んでくれているように、私には感じられていたんです。
いたんですけど、でもその母からの言葉で『あぁ、そうか』と。『おばあちゃんはともかくとして、もしかしたら他の人も、母と同じように『大学卒業したのに働きもしないで。暇そうにここに遊びに来てる』ってふうに思ってるのかもしれないな』と私は思ってしまいまして。
そう思ったら最後、なんかおばあちゃんのところに行くのが、急に恥ずかしく、面倒くさく思えてしまって。
それで、それを機におばあちゃんとの親交を経ったんです。
それ以降、おばあちゃんがどんな生活をしていたのか、と言うのは、伯父さん夫婦が両親に話した内容を聞くことで知るくらいでした。
畑にも行けなくなって。コーラスにも行けなくなって。その内、自宅のトイレに、浴室に行くことすら難しくなって。自室にほぼほぼ閉じこもりきりの生活で。
いとこの家族が訪れていっても、だんだんと『あなたたちは誰?』と問いかけることが多くなった。
そうこうしている内に、認知症の度合いもいよいよ深刻になっていって、施設に入居することになった。
『骨折さえしなかったらなぁ』と自室のベッドの上で、寂しそうに笑っていたおばあちゃん。
『ばあちゃん、20歳になるまで生きられないって言われたのにね。こんな状況になっても生きてるんだから、早くお迎えが来て欲しいよ』と呟いていたおばあちゃん。
畑仕事が大好きで、人と喋るのが好きで、コーラスが好きで。
でも、それら全部がままならなくなって、ただただ時間を過ごすだけだったおばあちゃんが、どんな思いでいたのか。
それを考えると胸が引き裂かれそうな思いがするのは事実です。
ただ一方で、結局は自分の一方的な思いだけで、その親交を経ってしまった私が、当時ならともかく今更、本当に今更、そのおばあちゃんの思いに対して想像を膨らませるのも、そしてそこに謝罪のような思いを抱くのも、本当に今更過ぎて、むしろ失礼過ぎる気がするのです。うん。
ただですね。
そうして寂しそうに笑う、呟くおばあちゃんの姿よりもですね。
私の中ではですね。
圧倒的に畑仕事に精を出している姿。道中で知り合いの人を見つけて、マシンガンのごとく喋り倒す(笑)姿。あるいは『来てくれてありがとう』と笑ってくれた顔。
はたまたいまだに考えても答えが出てこない。『何故、おばあちゃんの作るカレーは『もはや水』と言ったも過言ではないくらいのしゃばしゃばカレーなのだろうか』と言う有様だったカレーを『もっと食べ』とすすめてくる姿。
そうした姿、表情の方が、圧倒的に色濃く、鮮明に記憶の中にはあるんです。
ほんと、なんでおばあちゃんの作るカレー、あんなしゃばしゃばだったんだろう。
まぁ、カレーは飲み物って言うしな(違)
それが私の中のおばあちゃんの記憶であり、おばあちゃんとの思い出であり。
なんかもう、それが全てなんだと思います。今は、そう思います。
それで良いんだと思います。
そしてそうした記憶が、思い出があること。私とおばあちゃんの間にも、確かにそうした記憶が、思い出がある、あったと言うことは、とても幸せなことなんだと思います。
はい。
そしてそのおばあちゃんの歴史、人生と言うのは、甥っ子、姪っ子ちゃんたちに受け継がれていっているわけで。
それを思うと、認知症が進行してからはともかくとして。
おばあちゃん、本当にひ孫ちゃんたちのこと、可愛くて可愛くて仕方なかっただろうなぁ。いや、もしかしたら認知症が進行していっても、その愛情は当たり前に何も変わることはなかっただろうなぁ、と私は思うのでありました。
頑張れ!甥っ子、姪っ子、おばあちゃんのひ孫ちゃんたちよ!
てなことで、おばあちゃんへ。
ほぼ20年にわたり顔を見せることも、声を聞かすこともしなかった孫の私に、もはや呆れ返っていることでしょう。でも優しくて、とにかく明るいおばあちゃんのことだから、呆れながらも『あんたはそう言う子やでな。おばあゃん、知ってたで』と言ってくれているような気がするのは、私の勝手でしょうか。
あと、おばちゃんの訃報を聞いた瞬間『連休、潰れた』と思った私を、どうかお許し下さい。後でもし仕事だったら、公休と有給で休めたと言うのを知った時も『そうか。休みたかった』と思った私も、どうかお許しください。本当にお許し下さい(土下座)
人の生死はままならぬこと。42歳と言う年齢にある私は、これから先、自分のそれも含めて、その『ままならぬこと』に振り回されることが多くなっていくんだよ。
そんなことをおばあちゃんは、その身をもって私に教えてくれたのだと、今ならば素直に思えます。
私は『『あの世』があったとして、じゃあ、その『あの世』はどこまで続いているのさ!考えたら怖いだけじゃん!』と言う理由から、『あの世』の存在は信じないようにしています。
ただそれでも。
もし時間の概念も、辛苦も一切、存在していない『あの世』があるとするなら。
どうかおばあちゃんには、元気に畑仕事を楽しんで、知り合った人とお喋りをして、声高らかに歌声を響かせていて欲しいなぁ、と思います。
私の家の初代わんこ。おばあちゃんの畑に捨てられていて、私の家族に引き取られて。そしてお骨をおばあちゃんの畑に埋めさせてもらった初代わんこに出会えたら『今でも君のことは、時々、話に出てくるよ』と伝えておいて下さい。
おばあちゃんの火葬が終わる直前に。
雨も降ってないのに、大きな虹がかかったんですよ。
なんだかそれは、おばあちゃんの人生。その中にあった一切合切が形になったような出来事にも思えて、私はただただ奇跡を目の当たりにしたように思いでした。
ありがとうございました。本当にありがとうございました。
ではでは。本日の記事はここまでです。
読んで下さりありがとうございました!