tsuzuketainekosanの日記

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『カイナの大雪海』と『スパイ教室』から~アニメ化の面白さと難しさを思う

せっかくなので記事にしてみた。

 

主に『大雪海のカイナ』と『スパイ教室』について語っています。

例によって好きなことを好き勝手に語っているだけの記事です。どなたかをご不快な思いにさせようなどと言う気は毛頭ありません。ですがもし、記事を読まれてご不快な思いをされた場合、それはひとえに私の一切の文章力の無さが原因です。

先に謝罪しておきます。ごめんなさい(土下座)

 

あ、あと、です。

『大雪海のカイナ』もそうなのですが、特に『スパイ教室』に関しては、アニメ3話で明らかにされた、ひとつの重要な真実。それを隠すことなく書いていますので『ちょっとやめてよ!』と言う方は、どうぞその直前で画面を閉じて下さい。

よろしくお願いいたします(土下座)

 

では、本題です。

最近『成程。原作がある作品をアニメ化すると言うのは、これはこれでめちゃくちゃ難しいんだろうなぁ』と感じることも多くありまして。

単純に尺の問題とか、そう言うのもあるんですけれど。

そう言うのを抜きにした部分での難しさ、です。

いわば『原作』と言う素材を、どう『アニメ』と言う食べ物に料理するのか。

その匙加減や方法って、ほんと、制作側によってめちゃくちゃ個性があって、その結果として、時には原作のイメージががらり、と変わることもあるんだなぁ、と。

それを痛烈に感じたのが、秋アニメの『チェンソーマン』だったんですけど。

 

チェンソーマン』の話は、まぁ、いい。秋アニメ感想記事にも書いたので、ここでは割愛・・・私は定食屋で、がっつりとした定食が食べたかったんですけど。

 

まず小説や漫画がアニメ化される、その面白さを感じた例から語りましょうか。それが『大雪海のカイナ』です。厳密に言うと2話です。

軌道樹と呼ばれる巨樹。その上に『天膜』を作り生活をしているのが主人公のカイナです。そのカイナが、軌道樹の根元から上がってきたリリハと言う少女と出会うことで、本作の物語は動き出します。

 

その後の流れは割愛します。が、とにもかくにも2話の終盤でカイナとリリハは『天膜』からロープを使って、軌道樹の根元、すなわちリリハがやってきた雪海の世界へと降りていくことになります。

自分たちが降りたら、その都度、ロープを回収する。つまり降りたら最後、『天膜』の世界へは戻ってくることはできないと言うわけです。

勿論、無事、軌道樹の根元の世界に到着すれば、あるいはもしかしたら、『天膜』の世界へ、カイナが生活していた世界へ戻ってくる方法はあるのかもしれません。そう言う可能性の存在が、登場人物たちの頭にこの時点であったのか否かは謎なのですが。

 

とにもかくにも、とりあえずは戻ってこられないわけです。

自分がずっと生活をし、生きてきた世界。

慣れ親しんだ世界に、戻ってこられないわけです。

 

そして出立の日。カイナとリリハ、『天膜』でカイナと共に生活をしていた年老いた者たちは別れを交わすのですが。

ここでのね、カイナの『みんな、行ってきます』の言い方が。

もう私は、めちゃくちゃ衝撃的で。

『はぁ~。これはアニメにされたからこその面白さだよなぁ』と心底、感じたのです。

 

再度になりますが、カイナにとっては二度とこの先、自分が長きにわたり生活してきた、慣れ親しんだ世界に戻ってこられないかもしれない、そんな出立なわけです。

なのに、です。

なのにこの時の『みんな、行ってきます』の言いは、『ちょっとそこまで買い物に行ってくるね~』的な雰囲気のある、実にさりげなく、実にナチュラルで、実にライトなものだったのです。

『ちょっとそこまで買い物に行ってくるね~。多分、15分くらいで帰ってくるから~』的な言い方で、今生の別れになるかもしれない場面での別れの挨拶、そんな雰囲気は微塵もなかったのです。

一方のリリハの別れの挨拶は、見ず知らずの自分に親切にしてくれたと言う感謝もあるのでしょう。そしてその人たちとは、もう二度とこの先、会うことはないと言う覚悟も予感も、おそらくは彼女の胸にはあったのでしょう。

だから変な言い方、この場面、状況に相応しいと言うべき別れの挨拶、その言い方だったのです。

カイナとリリハ。2人の別れの挨拶の言い方。その対比は実に鮮やかだったのですが。

 

私は、原作漫画を読んでいません。なのでこの場面が漫画でどんなふうに描かれているのかも知りません。が、アニメではこの時のカイナの表情は、詳細なそれがわからない程度にしか描かれていないのです。

 

私がもし制作陣のひとりで、各キャラクターを演じていらっしゃる声優さんに演技の指示を出すような役割の立場にあったなら。あの場面では確実に『おそらくは今生の別れになるだろう。そんな覚悟と、ある種の悲壮感を滲ませた感じでお願いします』と指示を出しています。・・・我ながら凄い妄想だな(笑)

 

ですが、そうはされなかった。監督さん、音響監督さんなどはそうはされなかった。

あくまでナチュラルに。あくまでライトに。別れの挨拶を、カイナは口にした。

いや、もしかしたら原作者さんに聞かれた結果のことかもしれないし、細谷さんの演技がそのまま採用されたと言う流れなのかもしれないですけど。

その辺りはもう、わかんないし知らないですけど(当たり前だ)

 

だけどそのことで、逆にめちゃくちゃ情報が伝わってきたんですよね。うん。

カイナは『天膜』以外の世界を知らない。未知の世界にどんな光景が広がっているのかも、どんな危険が存在しているのかも知らない。何が待っているのかも、どんな物語が繰り広げられるのかも知らない。

何もかもがカイナにとっては未知なのです。

だからカイナは『怖れろよ!』と言われても怖れることができないんですよね。

未知なんだから。知らないんだから。

怖れる対象も未知なわけだし、そもそも『天膜』で、多少の危険にさらされることはあっただろうかもしれないけれど、基本的には日々、判を押したような生活を送り続けてきていたカイナにとっては『変化』すら、また未知に近い存在なわけですよ。

加えてカイナの年齢、少年と青年の中間にあるような年齢であり、その精神の未熟さを思えば、事の深刻さを理解しろと言っても、そりゃ難しいだろうなぁ、と。

 

そしてまた一方で、雪海にも人は住んでいる。そう信じて、『天膜』以外の世界に対して思いを、興味を馳せていたような描写もあったカイナのことです。

多分、『天膜』を後にしたと言うのは、カイナにとってはひとつの・・・希望、と言うと言い過ぎかもしれませんが、それでも、心のどこかで思い描いていたようなことだったんじゃないかなぁ、と言う気も、私はしたんです。うん。

それくらいにカイナの置かれていた状況は、閉じていた。穏やかで、平和で、優しい心に満ちてはいたけれど、閉じに閉じていた。

小さな変化、あるいは崩壊の兆しのようなものは見え始めていたけれど、多分、カイナがそれをしっかり、本当の意味で理解していたのかは疑わしい。カイナにとっては、それもまた未知だから。

 

そう言うカイナの生きてきた時間や状況。またその中でカイナが抱いていたであろう、密やかな思いと言うのが、たった一言の別れの挨拶。

『みんな、行ってきます』の言い方ひとつで、ぶわあぁぁぁ、っと伝わってきて。

『これは面白いし、いや、凄いな』となったのです。

 

漫画だと絵はありますが、しかし声はありません。

だからあの別れの言葉にしても、漫画で読んでいた場合には、自分の中で『あぁ、こんな感じなんだろうなぁ~』と想像するわけですよ。うん。

もし、私がアニメを見る前に漫画を読んでいたとしたら。

間違いなく、先程も書いた通り、もっと悲壮感溢れるような、そしてカイナの幼いながらの覚悟が感じられるような、そんな言い方を想像していたと思います。

 

漫画からアニメになって、キャラクターが声を発し、言葉を口にするようになった。

その『アニメだからこその』の魅力を存分に生かしたのが、そのことで新しい解釈や味わいを生み出したそのひとつがあのシーンだったなぁ、とひしひしと感じています。

ってか細谷佳正さんの演技よ・・・ほんとにさ・・・もう好き・・・好き・・・。

 

さて、もう一作品は『スパイ教室』です。

こちら原作は小説です。一応、コミカライズもされているようですが、それでもやっぱり原作としては文字だけの表現、描写が主なわけですね。

 

アニメ3話において、クラウスの師匠、ギードが実は帝国に寝返っていたことが明らかとなります。そしてギードがクラウスと7人の少女たちに襲い掛かってきます。

圧倒的な実力差を前に7人の少女たちは次々と捕獲されていき、万事休すと言う状況にまで追い込まれるのですが・・・。

そこで登場したのが、8人目の少女、エルナです。

実はクラウスと7人の少女たちは、自分たちの生活が帝国側に筒抜けになっていることを見越していた。そのうえで、最後の切り札であるエルナの存在を隠し通し、自分たちは7人であるという思い込みをギードに植え付ける。そしてピンチになったところで、ジョーカー的存在であるエルナが登場すると言う作戦を練っていたと言う展開でした。

 

この展開をアニメで見た時『あぁ』と私は思いました。

『あぁ。これは・・・これは難しい』と。

『多分、この展開で、序盤の要である3話に相応しい衝撃を視聴者、特に原作を知らない視聴者に与えたかったのだろうけれど・・・これは・・・難しい』と、偉そうに思ってしまったのです。はい。

で、結局、視聴を断念してしまったのですが。

 

これがですね。

絵もない、声もない、文字だけの小説であったなら、まだ驚きとしては新鮮なものがあったかもしれないのです。

『実は8人目がいたんですぜ、ぐへへへ』と言うのも、まぁ、ミステリ的なトリックとして通用すると思います。うん。

 

しかし、です。

 

小説とは異なり、絵があり、キャラクターが喋るアニメにおいては、この騙しのトリックはなかなかどうして難しい。

『『8人目の存在。それを隠し通すのが作戦だったんです!』と意気揚々と言われてもなぁ』と言う気が、私はどうしても拭えなかった。

『いや、そりゃまぁ、隠し通すのが目的だったから隠されていたわけだけど。でも、それって、なんかフェアじゃないよね』と言う気持ちを、強く抱いてしまった。

絵があり、キャラクターが喋るアニメにおいて、ただ単に『登場していなかった=それは隠し通すと言う作戦だった』と言われても、騙しとしてはフェアじゃないよね、と。

私にはそんなふうに感じられてしまったのです。うん。

 

さて。じゃあ、どうすれば良かったのか。

勝手な私の意見ですが。

せっかくアニメになったんです。絵があり、キャラクターが喋るんです。

ならばいっそ、エルナの存在を匂わせるような、そんなアニオリ描写があっても良かったんじゃなかろうか。

いや勿論、グラスの数等で、8人目の存在を匂わせるような描写はあったんですけど。

もっと絵で、あるいは声で、その存在を匂わせる。まぁ、あの、CV水瀬いのりさんの表記は、さすがにEDのクレジットでは内緒のままにしておいた方が良いとは思います。

 

で、これを盗聴している側、すなわちギードの視点で描く。

7人しかいないはずの少女たち。しかし何かが、何かがひっかかる。ギード、あるいは帝国のお偉いさんたちが『なんだ、この違和感は』と微かな違和感を抱く。

しかしそれを無視して、クラウスたちとの戦いに挑む。で、その結果、『違和感の正体はお前だったか!』と言う答えのエルナが登場して、クラウスたちに敗北する、と。

 

こうすることで、まずアニメだからこその利点を生かしたうえで、かつ視聴者に対しても極めてフェアな騙しのヒントを提供できるような気がします。

少なくとも、もしこんな感じの描写があったら、私は『成程。そう言うことだったのか!』と思えていたと思います。

そしてもうひとつ。

微かな違和感を抱いていながらもギードたちがそれを無視した、と言うことで、ギードたちがいかにお間抜けで(笑)、かつ、いかに自分たちの力を過信していたか、いかに慢心していたかと言うのも描けると思うんです。うん。

 

・・・まぁ、でも難しいわな(苦笑)

まず何より尺の問題がありますよね。それからなんだかんだ言っても、やはりクラウスたちサイドも、そうそう簡単にへまをするとは思えないですし。ねー。

 

この3話を視聴して思い出したのが、今からもう7年も前になるのですか。

柳広司さんの小説『ジョーカー・ゲーム』を原作としたアニメの存在です。

 

この小説を読んていた私は、そして大ファンだった私は、アニメ化と聞いた時『えっ!大丈夫!?』と思ったのです。

『小説は絵もない、声もない。だからこそ通用する視聴者に対しての『騙し』の部分があり、それがこの作品の魅力のひとつなのに。アニメになって絵があって、声優さんがそこに声を吹き込んだら、その『騙し』の部分が『騙し』として通用しなくなるんじゃないの!?』と。

 

で、アニメが放送されたら、確かに、そう言う部分があったのも事実です。

アニメの4話『魔都』と言うお話なのですが。

 

このお話で暗躍するスパイ、福本、CVは中井和哉さんです。福本は、作中で1人2役の立ち回りを見せるんです。1人で2人の人間に変装し、それぞれとして立ち振る舞い、対象者に接触すると言うわけです。

でもアニメだから声はある。当然、喋ると中井さんのお声が聞こえてくるわけですから、見ている側としては『あっ』ってなるんです。声で『これはスパイの福本だ!』とわかっちゃったんです。良い声だもの(笑)。勿論、喋り方、その声の雰囲気などはまったく違うんですけど、でもやっぱりCV中井さんですもの。わかっちゃう。

小説だと当然、そこまではわからないわけです。

 

なんですけど、でも、それが騙される側の視点で描かれていたんですね。騙される側が、自分が騙されていることに気が付いた時に初めて『あの時のあいつが!』と、自分が接触していた2人の人間が、そのとちらもが、実はスパイであったことに気が付くんです。

するとどうでしょう。視聴者としても、『うふふ。騙されよった~』と言う痛快さがそこにはあった。それは確かに、小説を読んだ時に感じる驚き、騙される快感とはまた違う面白みであったかもしれないけれど、でも、それはそれで、私はめちゃくちゃ面白かったのです。

騙されていることを承知で、騙される快感。

そして何も知らず騙され続けているターゲットを見続ける快感。

更にそのターゲットが、騙されていることに気が付いて茫然自失となるのを見る快感。

それらを思う存分、堪能できたと言いますか。うん。

ジョーカー・ゲーム』、ほんと、小説もアニメも実に素晴らしい、めちゃくちゃ面白い作品なので、まだ触れたことがない方は是非とも触れてみて下さいね!(宣伝)

 

『スパイ教室』も、確かに難しい部分はあったと思います。また原作を尊重するのであれば、エルナの隠し方と言うのは、アニメで描かれていた通りが正しいのだと思います。私は原作読んでいないので知らないのですが(知らんのかい)。

ただ個人的には『アニメだからこそ』の特性、魅力、小説との違いを生かして、もう少し踏み込んだ描写が欲しかったなぁ、と思わずにはいられない、と言うお話でした。

 

偉そうなことを言って、本当に申し訳ない(土下座)

ただこの先、もしかしたら華麗に騙されて『いやぁ~!騙されちゃったよ、お見事!』と言う快感を味わえるのかもしれない思うと、なかなかどうして、視聴を断念したのも惜しい気はするのですがね。

どうなんでしょう?原作読まれている方、教えて下さい。

 

まぁ、いずれにしても、小説や漫画をアニメにする。

その難しい作業に日夜、励んでいらっしゃる制作に携わられている方々には、アニメファンとしてはただただ感謝しかありません・・・ありがとう・・・。

 

ではでは。本日の記事はここまでです。

読んで下さりありがとうございました!