5月も本日で終了!早いね!
こりゃ人生なんて、ほんとあっと言う間だぜ!はは!
てなことで今回、感想をお送りするのはタイトルにも書きました『流浪の月』です。
こちらは今月13日ですかね、映画が公開されましたね。
広瀬すずさん、松坂桃李さん、横浜流星さん、多部未華子さんなどが出演されており、監督・脚本は『フラガール』や『怒り』などを手掛けられた李相日さんでございます。
どうでしょう?ご覧になられた方、いらっしゃいますか?
私は、原作小説読む前は、そーんなに見たい感じでもなかったのですが、原作小説を読んだら、ちょっと見たい気持ちが強くなりました。
その理由は後ほど、書きますが。
簡単なあらすじを。
主人公の家内更紗は、幼少期、誘拐の被害者になったと言う過去を背負っている女性です。9歳だった彼女を誘拐したのは、佐伯文と言う青年です。
しかし『更紗が文に誘拐された』と言うのは、実に表面的な説明に過ぎません。その当時、叔母の家に引き取られ肩身の狭い思いをし、更にはいとこから性的いたずらを受けていた更紗にとって、文と過ごした時間は何よりも楽しく、穏やかな幸福に満ちていた時間だったからです。
ですが世間は更紗に対しては『ロリコンに誘拐され心に傷を負った可哀想な少女』と言うレッテルを、そして文に対しては『9歳の少女を誘拐した気持ちの悪いロリコン』と言うレッテルを貼り続け、そのように扱います。
大人になった更紗は、亮と言う彼氏と生活しています。表面上は仲睦まじく見える2人ですが、亮もまた、更紗を『誘拐事件の被害者であり、可哀想な女の子』と言う目線で見ています。亮のその目線、更には世間からのそうした目線に、更紗はやり場のない怒り、虚しさを抱きながら、日々を過ごしていました。
そんなある日、たまたま足を踏み入れたカフェで、更紗は文と再会。そこから物語は動き出す、と言うのが簡単なあらすじです。
更紗と文の関係は、先ほども書きましたが、表面的なところだけなぞれば『誘拐事件の被害者と加害者』に他なりません。
ですが当事者の更紗にとって、文との関係や文に向ける気持ちと言うのは、どんな言葉をもってしても当てはまらない、説明のしようがないものなのです。
誘拐事件の被害者である更紗、つまり当事者である更紗は、そのことを必死に周囲に訴えかけようとします。しかし当事者の言葉であるにもかかわらず、その言葉に耳を傾けてくれる人はいません。
そして皆一様に、更紗に対して同情や憐れみ、心配の言葉をかけます。
何より当事者の言葉が通じない。事件を誰よりも知っているはずの人間である、当事者であるはずの更紗の言葉に、誰も耳を傾けない。理解の欠片すら、見せようしない。
代わりに当事者の言葉を無視して、自分の思いを一方的に、その当事者にぶつける。さも、それが絶対的に正しいことのようにして。
そうした何て言うんでしょ、優しさや善意。それと見せかけた、実はとても身勝手な言葉の数々、態度の数々に精神をごりごりと削られていく更紗の姿が、読んでいて本当にいたたまれなかったです。
また更紗、そこに怒りを抱きつつ、虚しさを抱きつつ、ほとんど惰性のようにして、癖のようにして『ありがとうございます』とか『ごめんなさい』とか言う言葉を返すんですね。
彼女はなにひとつ、悪いことしていないのに。なにひとつ、感謝しなきゃならないようなことされていないのに。
それがたまらなく悲しかったし、でも、そうしてしまう更紗の心情もめちゃくちゃ想像できたし。
彼女にそうさせているにもかかわらず、止むことなく続いていく善意、優しさの嵐が、ただただ怖くもありました。
なんだろ。何よりも尊重されるべきは当事者の声であり、気持ちであるはずなのに、そこが通じない恐ろしさや虚しさ。そこが徹底的に無視されているにもかかわらず、そこに何の疑いを抱く余地も与えないほどにまかり通る、善意、優しさは、果たして本当に『善意』であり『優しさ』なんだろうか。
そんなことをひしひしと考えさせられました。
勿論、中には本当に更紗のことを心配し、思い、その結果として、そう言う言葉を口にする人もいるのかもしれない。でも、それにしても、果たしてだからと言ってそれは善意、優しさと言ってしまっていいものなのだろうか。
それは多分、善意だと思い込まれているだけの暴論であり、優しさだと思い込まれているだけの押しつけなんじゃないかな、と。
本当に、本当に更紗のことを思っているのであれば、彼女の言葉に耳を傾けたうえで、何も言わない、沈黙と言う手段を選ぶのもまた、ひとつの優しさであり善意なんじゃないかなぁ、と思ったり。はい。
ただ更紗の凄いところは、理解されないのならばそれでいい。
私は、私の道を歩む。私の人生を歩む、と行動を起こすところです。
文と再会した後、更紗は少しでも文の傍にいたい一心で、彼が住んでいるアパートに引っ越します。
そして時を経て、再び文と交流を図っていくのですが、それに対して嫉妬心を燃やすのが、別れた彼氏の亮です。
亮の妨害、更には周囲の無理解に傷つきながらも、それでも更紗は文の傍にいたいと願い続け、そうあり続けようとあがきます。
物語、その大半は更紗視点で進んでいきます。しかし終盤、量としてはそれほど多くはありませんが、文視点で語られるパートも登場します。
そこで語られるのは文の気持ちであり、更紗が文に救われたのと同じように、文もまた、9歳だった更紗に救われた、確かに救われたのだと言う気持ちが明かされます。
互いが互いの幸せを祈りながら、そしてそれを望んではいけないと理解しながら、いつか、どこかで、また会えることがあったなら、と望んでいたのです。
この関係性は、BL小説を多数、執筆されてきた凪良ゆうさんらしい、胸が締め付けられるような切実さに満ちたものだな、と感じました。
誰にも理解されない。理解の片りんすら見せてもらえない。それどころか非難すらされる。後ろ指すら指される。
それでも、私にとってはあなたしかいない。僕にとっては君しかいない。
恋でも、情でも、性欲でもない。
ただただ、あなたの傍にいたい。君の傍にいたい。
息が詰まるようなこの関係性、お互いがお互いを求めてやまない、だけどそこに性欲が、恋情があるわけでもないその関係性は、やはり何と名付けて良いのか、私にはわかりません。
大げさな言い方になってしまうかもしれませんが、魂や精神が共鳴し合って、共振し合って引きつけ合っている。
そんなことすら感じさせる2人の関係性は、だけど変な言い方にはなりますが、BLを読んでいる身しては、それほど目新しいものだとは思いませんでした。
だけどそれでも、こうした関係性だからこその切実さには、本当に胸が締め付けられました。はい。
そしてBLであればここで、その切実な精神の共鳴、共振を証明するために性的交渉、端的に言えばセックスが登場するのでしょうが。
更紗と文、女性と男性である2人のその関係性に、セックスが登場しない、と言うよりまったく必要とされていない。更に言えば、それが不可能である、と言う流れも、個人的にはめちゃくちゃ面白かったし、興味深かったです。
それが不可能である、とは一体、どういうことなのか。
そこは是非とも、作品を読むなり映画を見るなりしてご確認いただきたいのですが。
要するに更紗と文は、その関係はいわゆる世間の、社会の、一般の理解であったり、常識であったり、大多数であったりする範囲から、大きく逸脱した存在であり関係なのです。
だけど、それでも。
更紗には文しかなかった。
文には更紗しかなかった。
そして2人は、その思いを貫き通そうとする。
傷だらけの全身、精神に、更に傷を受けながら、それでもその思いを貫き通そうとするのです。
その2人の様子、特に更紗の姿は勿論、痛々しくもあるんです。
でも同時、私にはとても美しく見えたのです。何て言うんでしょ。
常識、理解、大多数の範囲から逸脱することの孤独、孤独だからこその美しさとでも言うべきもの、力強さすら感じさせるその美しさを、文の傍にいたいと言う思いを地づ減させるために行動する更紗は全身で放っていると言うか。
意を決した更紗は、亮と暮らしていたアパートの部屋を夜逃げし(笑)、文の住むアパートに部屋を借りて、ひとり暮らしを始めます。
その時に更紗は、これで自分はひとりになった、と様々なことを思うんです。クリスマスやお正月もひとりで過ごす。地震が来た時にもひとりで逃げる。風邪をひいて熱を出しても心配してくれる人も、看病してくれる人もいない。
そして余命いくばくない状況になった時も、命尽きるまでの時間をひとりで過ごす。
身寄りのない更紗にとって、ひとりになると言うのはそう言うことなのです。
でも更紗は言い切るんです。
『それがどれほどのことか』と。
この場面を読んだ時、比喩でも何でもなく私は本当に身震いをしまして。はい。
絆や繋がりと言った言葉が溢れかえっているくせに、多様性と言う言葉も多く使われているくせに、常識や理解、大多数から外れた絆や繋がりに対しては冷ややかな視線、攻撃的な言葉を投げかけることも多い現代の社会において『理解されること』の意味は、どれほどあるのだろう。
『理解されて』『誰かと繋がっている』だけど、それは決して『私』の幸せではないと言う状況と、『理解はされない』『ひとり』だけど、それで『私』はとても幸せと言う状況、どちらが意味のあることで、望ましいことなのだろう。
何よりそれは『私』が決めることである。
そんなことをひしひしと、この時の更紗からは感じて、本当に身震いがしたんです。
圧倒的に孤独で、でも美しく、自由で、しなやかな強靭さに満ちた彼女の魂とか、精神、そうしたものの輝きを目の当たりにしたような気がして。
そして文が、9歳の更紗と共に過ごした時間の中で感じたのも、それに触れた救われた思いがしたのも、更紗のこう言うところ。
その自由で、しなやかで、故に強靭な精神だったんだろうな、と言うのがめちゃくちゃ理解できたんです。はい。
肯定だったんだな、この2人。
更紗は、文に肯定された。ここにいていいよ、って肯定をされた。
そして文も、更紗に肯定された。ある秘密を抱え、それに苦しんでいた自身の姿、それをそのまま、9歳だった更紗に、大人になった更紗に肯定された。あなたはそのままで、そのままがいいんだよ、って。
だからですね、本作品。
常識や理解、大多数の範囲から弾き飛ばされてしまっているありあらゆる思い、それを抱える人たちにとっては、そしてそれでも『私は、幸せになりたい』と息をひそめるように生きている人にとっては、勇気じゃないですけど、強さを抱くことができるような、そんな作品だと、私は思いました。
少なくとも私は、更紗の姿に勇気をもらった。強さをもらった。
で、その更紗の姿と広瀬すずさんの演技されている姿と言うのが、映画を見ていないにもかかわらず(笑)私の中では、見事過ぎるくらいにぴったりと重なり合って。
あと文が松坂桃李さんと言うのも、これ、原作読んだら『んはぁ~』と言う感嘆しか出てこないくらいにぴったりなんですよねぇ。
また実はとんでもない本性を隠している、だけどこの人もまた悲しい人である亮を横浜流星さんが演じていらっしゃると言うのも、実に面白いなぁ、と思いまして。
更に更に、文の現在の彼女である谷さん。彼女を多部未華子さんが演じていらっしゃると言うのも、今知って『いやん、ぴったりすぎるやん』と(笑)
ってか多部さん。ご結婚、ご出産を経て、なんか以前にも増して美人度は勿論のことと、なんかチャーミング度が増されて、めちゃくちゃ可愛くなられましたよね?
CMとかで多部さんを見かけるたび『可愛い・・・可愛い』と見惚れている私がいるよ、ごめんね、気持ち悪くって!
要するにほんと、原作小説を読むと、このキャスト、めちゃくちゃ原作小説から受けるイメージとぴったりなんですよ。
なので是非とも、映画、見てみたいなあ、と思ったのであります。はい。
てなことで本日は『流浪の月』の感想文をお送りいたしました。
ってか、あんまり興味なかったから見もしなかった予告、見てみた。
泣けた。あかん。
松坂さんの文が、これ、完璧すぎる。原作通りすぎんよ!
ではでは。本日の記事はここまでです。
読んで下さりありがとうございました!