tsuzuketainekosanの日記

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休みだけど読書感想文の日~この季節にぴったりなこの作品の感想を

はい。本文が長くなりそうなので(まぁ、いつも長いけど)、早速、本題。

 

春ですね。

桜の季節ですね。

 

この季節になると必ずと言っていいほど、読み返したくなる作品があります。

それが髙村薫さんの『李歐』です。

てなことで本日は、最近、何度目かの読み返しを終えたこちらの作品の感想をお送りいたします。

 

『李歐』です。はい。こちらは髙村さんの『わが手に拳銃を』が下敷きになっている文庫作品なのですが、ぶっちゃけ、登場人物の名前やらは共通しているものの、物語としての完成度や濃度、その流れなどは別物と言ってもいい作品となっています。

『わが手に拳銃を』も良いのです。面白いのです。

が、やはり私は圧倒的に『李歐』の方が好き。

好きと言うかなんかもう、個人的には人生の1冊と言うか、棺桶の中に入れて欲しいくらいの1冊です。

 

初めて本作品を読んだのは、多分、高校2~3年の時。17~18歳の時ですね。

それから現在40になるまで、読み返した回数で言えば、文句なし、ダントツ1位。ちなみに2位は、多分、秋になると読み返したくなる中島敦さんの『山月記』の新潮社文庫のやつ。含む『弟子』『名人伝』。

 

はい。

 

てなことで『李歐』の簡単なあらすじです。

なんだろ、もう私の駄文であらすじを語ると、その途端、この作品の魅力が削がれちゃいそうな気がするので、文庫の裏に書かれているそれをそのまま、引っ張ってくることとにします。

 

『惚れたって言えよー美貌の殺し屋は言った。その名は李歐。平凡なアルバイト学生だった吉田一彰は、その日、運命に出会った。ともに22歳。しかし、2人が見た大陸の夢は遠く厳しく、15年の月日が2つの魂をひきさいた。『わが手に拳銃を』を下敷きにしてあらたに書き下ろす美しく壮大な青春の物語』

 

引用の仕方がわからなかったので(おっふ)こんな書き方になってしまいましたが、以上が文庫の裏に書かれてある紹介文です。

 

当然ですが、公式さんの紹介文なので実にわかりやすい!はい。

簡潔に、実に簡潔に言えば、2人の青年の友情の行方を描いている物語です。はい。

 

で、です。

初めてこの作品を読んだ時、そして、そうだなぁ、20代はですね。

私にとってこの作品は『一彰と李歐の関係に身悶えする』そんな作品でした。

髙村さんの作品らしい、男性同士の濃密な関係性。友情と言う言葉では片づけられない、もはや狂おしいほどの愛にも似た関係性を描いた作品。

そう言う作品だと思うので、とにかく私はそこに悶えに悶え、萌えに萌え、はふはふしていたのです。ええ。

 

ところが、です。

 

30代に入ってから、そして40になった今。

この作品を読み返す度にこみ上げてくるのは、勿論、一彰と李歐の愛に近い感情のやり取り、その行方にはふはふする感情もあることにはあるのですが。

 

それ以上に、何と言うか『この作品『人生』ってものを、すげぇ描いてるよな』と言う、なんかもう、とてつもないものを見せつけられているような、そんな感情なのです。

 

あぁ、この感情をうまく言葉にできない己が憎いっ、くそっ。

 

ネタバレになってしまうのかもしれませんが、この作品。

一彰と李歐の友情を描いてはいますが、2人が時間を共に過ごしているシーンと言うのは、作中においてはそれほど多くのページが割かれていません。

それよりも圧倒的にページを割いて描かれているのは、李歐と離れた後の、一彰の生き様なのです。

 

で、これが、もう、年々、読み返す度に、要は私が年齢を重ねるたびに、めちゃくちゃ染みるんですよ。ええ。

 

何と言うのかな。

 

一彰と李歐、2人が初めて出会い、そして共にとんでもない行動を起こしてしまうわけなのですが、その時って言うのは、一彰も李歐も、めちゃくちゃ若いんです。

先ほど紹介したあらすじにもありますが、共に22歳で、本当に若いんです。

いろんな意味で若いんです。うん。

 

だからこの時の2人が、共に過ごした時間、そして大それた行動を起こしたそのことと言うのは、まぎれもなく『青春』であり、髙村作品にはおおよそ似つかわしくない言葉かもしれませんが(笑)それでも、きらきらと、燦然とした光を放っている、そんなものなんです。

うん。

 

ところが、です。

 

李歐と別れてからの一彰は、物語の中で年齢を重ねていきます。

若さが、年齢的な若さは勿論のこと、精神的な若さと言うのも、じょじょに失われていくわけです。否、失われていくと言うよりも、くたびれていくと言うたとえの方が、しっくりくるような気がします。

そしてこの『精神的な若さがくたびれていく』と言う感覚は、多分、一定の年齢を重ねた人にしかわからない、感じられないような感覚だと、私は思います。はい。

 

若き日に共に時間を過ごした李歐。彼との思い出。

そのすべてに強烈な未練、執着、恋情にも似た思いを抱きながら、しかし一彰は、その一切を諦めたふりをして、日常、平凡へと埋没していくんですね。

うん。

 

早い話が仕事に就き(まぁ、それ以前から仕事には就いていたんですが)、やがてはその職場である町工場を継ぐことになり、ある女性と結婚をする。そしてその女性との間に子どもを授かる、と言う人生を歩んでいくんです。

 

勿論、それだけでは物語としては大きく動きがないです。よってこの一彰の人生の歩みには絶えず李歐の存在がつきまとい、そしてそのことで、常に人には言えない、裏社会や裏の仕事と言った存在が付きまとっている。

そうしたものも絡めて、そうしたものとどう、一彰が向き合っていくかと言うのが描かれていくわけなのですが。

 

それでも簡単に言えば、一彰は人並みの、ごくごく人並みの、一般的な人生を歩んでいくんです。

 

なんだけど、やっぱり、李歐のことが諦められない。

短い青春の、燦然と輝いている李歐との時間、李歐と言う存在。そして彼と交わした約束が、一彰の人生を、変な言い方ですが縛めているのです。

 

あまりにも現実離れした李歐とのすべてが、青春時代の過去が、一彰の、平凡な日常を、今を、そしてまだ見ぬ未来を、苦しめる。

 

この描写がね、もうたまらんな、と。

年齢を重ねたからこそなのかもしれないけれど、過去の、輝かしい時間に対して懐かしさを通り越した感情を抱いてしまい、しかし、その自分が生きている今は、あまりにも平凡で、凡庸であると言う事実を考えた時の、何とも言えない空しさと滑稽さ。

それがもう、本当に骨身にしみてくるようで、たまらんな、と。

 

で、その一彰の心情を描写した文章があるんですけど。

これがもう、ほんと、読み返す度、どんどん、どんどんと胸の深いところにまで突き刺さってくるんです。うん。

それが文庫の373ページのラストあたりですね。はい。

で、そこから、だけどやっぱり、否、だからこそなのかもしれない、李歐に対しての自分の思いを再認識した一彰が、李歐の名を口にして、自分の思いを口にする。

その一連の流れの描写が、もう、本当に切ない。

 

でね。

これが一彰の、いわば片思いだったら、まだ救いがあったんです。ええ。

ところがどっこいそうではなかった。

李歐が一彰のことをどう思っているのか。そしてその思いの強さがどれほどのものなのか。そうしたことを、ことあるごとに一彰は、第三者から耳にするのですね。

この李歐の物語、李歐と言う美貌の殺し屋の人生の物語と言うのも、実にいろいろと考えさせられる、重みのある内容になっているのですが、まぁ、それは置いておいて。

 

だから一層、一彰は李歐に対しての思いを断ち切ることができないのです。

李歐と交わした約束を捨てきることができない。

その約束が実現された未来を捨てきることができない。

だけど平凡で、凡庸で、それ故に圧倒的に幸福な日常は続いていく。

その中で自分が背負っていくものと言うものも増えていく。

そうしてなおさら、その幸福な日常の重みは増していく。

 

決して変えることができない、変わらない自分の思いと。

変わっていく、変えられていく自分の人生、環境と。

その合間で、いわば右手を李歐に、左手を凡庸で平凡な日常に、全力で引っ張られている状態の一彰。

果たして、その彼が行きつく物語の結末とは・・・これは是非とも、作品を読んでご確認くださいね。

 

そしてもうひとつ。

私が年々、この作品を読み返して強く思うのが、守山、田丸、笹倉と言う3人の男性の存在、彼らの人生の重みです。

この3人はそれぞれ、一彰や李歐よりもかなりの年長者で、それぞれが一彰や李歐と密接な関係を持っています。

 

いやぁ・・・なんだろうな。ほんと。

この3人のおじさん(言い方!)の物語、あくまで一彰目線での描写ですけれど、個々の物語を読むと、何と言うか、ほんと『人生はどう生きても、ただの一度きりである』と言う当たり前のことを、強く、強く突き付けられたかのような気持ちになります。うん。

それぞれの職業も、身を置いている環境も、その中での立場も全く異なっている3人のおじさん。だけど、私がこの3人の物語から強烈に感じたのは『様々なものを背負って、その重みに圧し潰されそうになり、それでも生き続けた人生』の重さと、『その人生にどう、自分なりのけじめをつけるか』と言う覚悟のようなものです。

 

自分よりも圧倒的に若い一彰と李歐と言う青年に対して、それぞれのおじさんが見せた生き様。

それがもう、めちゃくちゃ渋いし、めちゃくちゃ胸に染みるんですよねぇ・・・。

 

個人的には田丸と笹倉が、物語の後半で一彰と交わした会話の内容と言うのが、もう、なんか『あぁ』としか言葉が出てこないような。

 

田丸さんは、どんな思いで桜を見上げたのかなぁ・・・。

 

はい。

 

そしてこの作品を語るうえで欠かせないのが、桜の存在です。

どれだけ時が流れようとも。

人間の営みが変わろうとも。

個々の人生が、時に暴力的なまでに変化しようとも。

桜だけは、季節が来れば必ず、咲き誇る。

決して変わらない。

 

そんな桜の存在は、一彰と李歐の、互いに向ける思い。そして平凡で、凡庸な人生を脈々と生き続けたすべての人の人生を象徴しているように、私には思えるのですが・・・まぁ、これは勿論、読まれた方それぞれがそれぞれの思いを抱かれることでしょう。

そう言うの、語り合いたいですなぁ・・・。

 

ちなみに。

この作品を検索すると、サジェストで『バナナフィッシュ』が出てきますね。

成程。

実にざっくりした言い方をすると『ブロマンス』的な作品と言う点においては、両者、共通しています。あとその2人の国籍が違うと言うのも。

なので『バナナフィッシュ』が好きと言う方も、『李歐』は非常に胸熱くして読んで頂ける作品なのではないかな、とも思います。

 

はい。

てなことで本日は、桜咲くこの季節になると読み返したくなる作品『李歐』について語ってまいりました。

正直、今回の記事ほど、自分の語彙力、表現力の無さを嘆きたくなったことはないよ。

泣きたい。

 

ほんと、あの、素晴らしい作品ですので、是非とも読んで下さい(土下座)

 

ではでは。本日の記事はここまでです。

読んで下さりありがとうございました!