と言うわけで、ネタとしてはずいぶんと前のネタになるような気もするのですが。
まぁ、いいじゃないか!
今回は去年12月に発売された『鬼滅の刃』の単行本最終23巻の感想や、無事、最終回を迎えた『鬼滅の刃』と言う作品に関して、個人的な感想、意見を書いていきたいと思います。はい。
てな具合で去年は、特に劇場版が公開されてからは、まさしく社会現象になったと言っても過言ではない『鬼滅の刃』ですが、どうですか?
私は未だ、未だに劇場版を見に行けていません(ちーん)
公開前は『よーし、絶対に見に行ってやるぞ!』とそれこそもう、劇場観賞用の予算まで準備しておくほどのやる気っぷりだったのですが・・・はは(汗)
なんかこれだけのブームになると、逆に『いや、なんかもういいかも』と言う気持ちがわいてくるのは、一体なんなんでしょうね。
ね?(知らんがな)
そんな中、無事、発売された最終23巻。
炭治郎たちと無惨との死闘にようやく決着がついた巻。そしてその後の物語が描かれている最終巻でございます。
まぁ、この巻も読むのが辛いのです。無惨との決着はつくんです。うん。でもその代償として失われてしまった存在、あまりに多くの存在と言うのが、改めて、改めて胸に迫ってくるような巻でもありまして・・・途中からラストにかけては、もう涙、涙ですよ・・・はい。
ただ、ですね。
個人的に23巻でいちばん、印象に残っているのは、実は話そのものではなく(え?)
いや、お話そのものも当たり前ですが、印象に残っているんですよ。はい。
ただそれ以上に、なんと言うか衝撃的ですらあったのが、作者、吾峠呼世晴さんのメッセージでございます。
23巻では最初から最後の最後まで吾峠先生のメッセージが寄せられているのですが(と言うか、もうこの23巻自体が、吾峠先生からのメッセージの塊だと言うこともできるわけなんですが)、その中でも私が特に印象に、それこそ衝撃に近いような感覚すら味わったメッセージがこれです。
っても、丸ごとそれを引用するのは、なんかダメなような気がするので(汗)
簡潔に、どのような内容のメッセージなのかをまとめてみると・・・謝罪とそして願いの言葉なのです。
ずっと作品を楽しみにしながら、でも完結まで見せることが叶わなかった方がいる。
そう言う人に対して吾峠先生が、申し訳なく思うと言う謝罪の思いと、いつかまたどこかで会えたら、友達になれたら、と言う願いをメッセージとして書かれているんです。
このメッセージを読んだ時、ほんと、ぶわっ、と全身に鳥肌が立ちまして。
何と言うか、こわい、と思ったんです。でもそれは恐怖とかからくる『こわさ』ではなくて畏怖の気持ちに近いような、とても広くて、強くて、あたたかくて、神々しさすら感じさせるような存在を目の当たりにしたような。
そんな『こわさ』だったのです。
私は漫画も、そして本も読むのが好きです。なのでそう言う書物を通して、その作者さんのメッセージに触れる機会と言うのは多々、あります。
『作品の完結を見せることが叶わなかった人』に対して気持ちを寄せているメッセージと言うのも、まったく見かけたことがないわけではありません。
ただそう言う人たちに対して謝罪の気持ちを寄せている、そしてその上で『いつかどこかで会えて、友達になれたらと夢見る』と言うメッセージは、初めて目にしました。
作品の完結を見せることが叶わなかった、その理由と言うのは様々あるだろうと推測できます。ただどんな理由にしても、身も蓋もない言い方をしてしまえば、9割9分9厘、吾峠先生は悪くありません。
めちゃめちゃ強引に理由を探し出すとすれば、作品の完結を見せられるような長さに作品をまとめなかった、それくらいです。
そしてその理由にしたって、作品の完結を見せることが叶わなかったすべての人の背景を考えると、長さをまとめると言ってもどこでまとめるべきだったのか、そう言う疑問が浮かんでくるわけですから、すべての人に完結を見せると言うことは土台、無理な話です。
だから吾峠先生が謝罪される理由はどこにもないのです。うん。
ただそれでも、そう言う方々に思いを馳せて謝罪をして、そしてまた出会えたら、友達になれたら、と願いの言葉を口にされた。
めちゃくちゃ、めちゃくちゃ繊細で、やさしい方なんだろうなぁ、と。
吾峠先生にとって『鬼滅の刃』に少しでも触れられたことがある方、すべてが、本当に、本当に大切な存在で、なんと言うかこー、ひとりたりとも『平穏』とか『幸せ』と言った器からとりこぼされてほしくない、そう思う存在なんだろうなぁ、と。
強く、強く感じたのであります。はい。
勿論、これはあくまで私の勝手な推測にすぎませんよ、はい。
世の中と言うのは、どれだけそう願っても、時に信じられないくらいの理不尽が、悲劇が、辛苦が、ある日、突然、襲ってきます。
そうしていとも簡単に、人の命が奪われ、かき消されてしまいます。
思えば吾峠先生が『鬼滅の刃』の単行本で寄せられるメッセージの中には、そうした出来事に対する悲しみや、でもどうすることもできない諦めのような気持ちが滲んでいるものも多々、あったように個人的には記憶しています。
でも悲しみや諦めがありつつも、だからこそ、ぐっと歯を食いしばって生きていこう。頑張りすぎず生きていこう。どうか元気でいて下さいと言うようなメッセージも同時に寄せられていて。
吾峠先生にとっては、何だろ、『鬼滅の刃』を通して直接的ではないにしても出会った読者の方すべてが、そうした大変な世の中を生きていく同士みたいな存在なんだろうなぁ、とも思ったりして。
はい。
だからこそ、今回は完結まで見せることが叶わなかったけれど。
また出会えて、友達になれたら、その時は完結まで見せたい、と言う気持ちが、自然とわいてこられたんだろうなぁ・・・。
ってかこの『生まれ変わり』を心底、願うように信じている気持ちと言うのが、私にとっては本当に、本当に驚嘆と畏怖でしかないのであります。はい。
でもだからこそ、『鬼滅の刃』でもまた、『生まれ変わり』と言うのがひとつのキーワードになっていたんだろうなぁ、と。
なんだろ。
『生きた』からこそ『生まれ変わり』があるんだよ、と。
生きた時間の長短は関係ない。
ただただ一生懸命に『生きた』からこそ、その果てに『生まれ変わり』がある、と。
そんなことが描かれていたように思うのですが。
で、ここからは『鬼滅の刃』の感想でございます。
まぁ、私なんざが何を語る、語れるはずもなく、ほんと、23巻のラストが全てだと思います。
あのー、劇場版が公開された直後、ちょっとネタバレになってしまうかもしれないのですが、煉獄さんの自己犠牲の精神は、ともすれば危ういんじゃないか、みたいな記事を見かけた記憶があって、ちょっと印象に残っています。
自己犠牲。ふむ。そうか、と思う反面、でもやっぱり、煉獄さんにしても、多くの柱の面々にしても『後に繋げる』と言う、その気持ちだけを胸に、自分で選択をしたのであれば、それは少なくとも『犠牲』と言う言葉で語られるべきものではないんじゃないかな、と言う風に思うのですが、いかがでしょうか。
私にとって『犠牲』とは強いられると言うニュアンスが強い言葉だと言う感じがします。で、その言葉と『鬼滅の刃』で散っていった命のことを照らし合わせると、勿論、強いられた・・・と言うより、『そうせざるを得なかった』と言う面はあるのだと思います。うん。
ただそれでも、そう言うものであったとしても、そう言う状況下でしかなかったにしても、少なくとも柱の面々は『何としてでも鬼を倒す』『大切な人へと繋げる』そのために『自分で選択した』と思うんですね。はい。
強いられたのではなく、選択した。
最後の最後まで、そこには、その人の意志、思いがあった。
だからこそやっぱり『犠牲』と言う言葉はなんか違うように感じますし、多分、これが本当にただの『犠牲』『自己犠牲』だけの物語であったなら、ここまでこの作品が多くの人に支持されることにはなっていなかったんじゃないのかなぁ、と。
『鬼を倒す』『大切な人を守る』『必ず後に繋げる』
そうした思いの強さと、それ故の自己選択。それがあったからこそ、最初から最後まで揺らがなかったからこその人間としての人生の濃密さが描かれていた。
だからこそ、多くの人がそれに魅せられ『鬼滅の刃』は支持される作品になったんじゃないのかなぁ、とか生意気そうに語ってみました。はい(ちーん)
なんだか語りたいことはあるのですが、どう語ればいいのかがなかなか思い浮かばず、語彙力も浮かんでは来ないし、ほんとどうしよう、と言う感じなのですが。
どうしよう(知らんがな)
まぁ、あの、あれ。
ほんと、まだ読んでいない方はぜひとも、最終23巻、読んで下さい。
涙が止まらない一冊です。
そして、彼ら、彼女らの笑顔が目に浮かんでくるようなラストです。
はい。
そんな具合で本日は『鬼滅の刃』最終23巻の感想を書いてまいりました。
いつも以上に中身が薄い記事のような気がするのですが・・・ほんと、申し訳ないです・・・かっはー・・・。
ではでは。今回はここまでです。
読んで下さりありがとうございましたっ!