うえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!
今日から4連勤第2弾の始まり、ふうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!
はい。こんなテンションじゃないとやってられないの。
まぁ、あの、はい。
BL電子漫画を心の糧に、どうにか乗り越えていきたいと思います。
あと今までやりたかったけどいまいちやり方がわからなかった、タグつけ。
それが簡単にできるようになったみたいなので、本日の記事から早速、利用してみます。はい。
そんなこんなで本日は、ちょろっと前に記事にした中島敦の作品について語る、その記事の第2弾でございます。
秋と言えば中島敦、と偉そうなことをのたまっておりますが、私が読んだことがある作品は『山月記』『名人伝』そして『弟子』の3作品のみ(ちーん)
で、この前の記事では『山月記』について思いのたけをぶちまけました。そして本日は残りの2作品『名人伝』と『弟子』についてあれこれと語ってまいりたいと思います。
と言うわけで早速、まずはこちらの作品からです。
・『名人伝』
・・・とにもかくにもラストが強烈なのだ。あらゆる意味で。もはや生きているのかどうかすら疑わしいような状態となり、静かにこの世を去った紀昌の姿も、そしてそんな彼のありさまに対して、人々の間で交わされた噂話も。更に弓の名人である(らしい)はずの紀昌が弓の名を忘れていたと知るや否や、邯鄲の都の画家は絵筆を隠し、職人は道具を手にするのを恥じたと言う結末も、本当に強烈。
いろいろな解釈ができる、そしてその解釈が人によって大きく分かれる作品だと思います。はい。個人的には、ひとつは、紀昌の弓の腕について、特にその晩年には噂でしか語られていない、と言うところに、何か現代でも通用するようなメッセージを感じるのであります。もしかしたら山から下りてきた紀昌は、実はむしろ弓の腕は落ちていたかもしれないわけですよ。うん。なのに人々は、あれやこれやと勝手に、どういうわけか『あいつの弓の腕、すげぇらしいぞ!』と言う方向のみの噂をした。うーん、面白い。
あと初めて読んだ時には『物事を究めるためには、その人間性すら犠牲にしなければならないと言うことなんだろうなぁ』と感じたのです。
まぁ、そんな単純なメッセージではないのかもしれませんが、それでも、もし、そうだとしたら。弓の道、それを究めるために、ただそれだけのために人間性すらを捨ててしまったのだとしたら、それもまた滑稽で、哀しい話ではないか、と言うメッセージがあるのかなぁ、と言う気も私はするのですが。
なんとも皮肉、そして強烈なラストが待ち受けている作品だと思うのですが、一方で紀昌が言われた通りの修業を行っているシーンとかは、めちゃめちゃコミカルなんですよね。うん。機織り機の下にもぐりこんで、奥さんに叱られるシーンとか。まつ毛の間に小さな蜘蛛の巣が張ったとか、視ることを究めた結果、あらゆるものが大きく、そして細かく見えるようになっていた、とか、このあたりの描写は、本当にその光景が目に浮かぶようで、面白いのです。
あぁ、そうか。紀昌と言う人は、どんな無茶なことも、弓の腕を上げるためならば、と努力できるほどに純真な人間だったんだなぁ。だとしたら、そんな人が、最終的に『おまえに教えることはなにひとつない。なに、ひとつ、ない』とでも言われたりしたら、そりゃ呆けてしまうわな、と今、思ったのですが、さてはて。
はい。そんなこんなで、なんと言うか、いろいろな人と話し合いたい。『こういうメッセージが込められてるんじゃないか』とか『ここはこういうふうに解釈できるんじゃないかな』と言うふうに話し合いたい作品ですな。はい。
はい。そしてお次は最も好きな作品であるこちらの感想です。
・『弟子』
・・・この話はね、もう本当に心に深く、深く刻み込まれている作品です。『人と人とが出会うことで、人は変わる』と言う不変的なことを、2人の人間、師と弟子、孔子と子路と言う人物を通して、そしてまた実に情感あふれる文章を通して読む者の心に伝えてくる、名作中の名作だと思います。
簡単なあらすじを紹介しますと、孔子に弟子入りをした子路と言う男が、この物語の主人公であります。町の荒くれものだった子路は、ある時、孔子を貶めてやろう、と彼のもとに出向きます。しかし孔子との問答で目が覚めるような思いがした子路は、孔子の偉大さを知り、孔子へと弟子入りをします。
子路と言う男は、とても直情径行な性格の持ち主です。そのため時に孔子の教えや言葉、儒学に対して大きな葛藤や苦悩、また怒りなどを覚えりします。そんな子路に対して、しかし孔子は厳しく叱る一方で、彼のその素直な性格を尊重し、愛情深く彼を見守っていきます。
そうして学びを深めていった、また人間としても大きく成長を遂げていった子路は、ついにはひとつの邑を治めるまでに至ります。
ところが政変が起きたことで子路の運命は、大きな時代のうねりへと飲み込まれていく・・・と言うのがあらすじでございます。
本当にね、この師と弟子、孔子と子路のひとつひとつのやり取りと言うのが、読んでいて本当に面白いし、胸にじんわりと染みていくようなんですよ。
こー、孔子の厳しくも、でも弟子として、そして一人の人間として、しっかりと子路のことを尊び、愛情深く見守っていく様子も、そして子路の、素直すぎる性格、それゆえ、様々な感情にぶつかり、時に孔子にかみついたりする様子。だけど、孔子と言う師匠のこと、人間のことを尊敬し、愚直に学びに向かおうとする姿と言うのが、その2人の個性と言うのがしっかりと描かれていて。
で、その個性のまじわりによって、2人の内面にも変化が生じていく、それによってますます2人の関係も、そして学びの道も、人生も深みを増していく。
これって、とても、とても幸福なことだと、私は思うんです。
どちらか一方が片方に感化されて変わる、と言うのももちろん素敵で幸せなことだと思うんですが、この作品では、互いが互いに感化されて変わっていく。
そういう人間関係って、現実社会でもそうそうあることではありませんよね。
え?実はあったりするの?
私がそういうの経験してないだけ?(ちーん)
はい。まぁ、何はともあれ、そうやって学びを通して互いが互いに感化されていき、人間として成長していく孔子と子路の姿、そしてその関係と言うのが、私には本当にうらやましく思えて仕方ないのです。
また子路が孔子に向ける視線や思いと言うのはもちろんなのですが、孔子が子路に対して向ける視線、思いと言うのは、人としても見習いたいなぁ、と思うのです。
誰に対しても等しく『人としては対等である』と言う『尊び』の念を持って向き合う。
これって、本当に、言葉でいう分には簡単ですが、実際にやるとなると、めちゃめちゃ難しいことなんだよなぁ・・・。
はい。
そしてラストもな。
ネタバレになるから詳しくは差し控えますが。
本当に切ないんだわ。悲しいんだわ。
学びを通して、人と人として、師と弟子として、いくつも日々を過ごしてきた2人の、その道の先に、まさか、まさかこんな結末が待ち受けていようとは・・・。
でも同時、その結末に至る子路の行為と言うのも、子路らしいんだよな。
人が人と出会うことで変わる。
でも、その中ででも、どうしようもなく変わらない、変えられないところと言うのもある。
それこそが『その人らしさ』と言う、その人の、最大の魅力であり欠点でもあるのだろうな。
孔子も、それを嫌と言うほどに知っていたから、わかっていたからこその、あの言葉だったんだろうな。
なー。
あー、切ない。
本当に幸せな話で、でもだからこそ、本当に切ない、哀しい話です。
なんだろ。一生に一度でいいから、こんな孔子と子路のような出会いを、そして二人が過ごした日々のような時間を過ごしてみたいと、切に思うのであります。
はい。
と言うわけで、本日は中島敦の『名人伝』と『弟子』について語ってまいりました。
なんか語りたい思いはあれど、それを表現する語彙力やら技術力がないあまり、結果としてよくわからない、思いのたけが伝わらない文章になってしまっているのが、自分でも本当に情けないやら悔しいやらなのですが・・・。
結論・・・長きにわたり読書をしていても、それが語彙力や表現力につながるとは限らない!
はい。
まぁ、しかしあれです。
教科書に登場するような作家の作品と言うのは、ともすれば『難解そう』と敬遠されがちです。
確かに読み進めていくのは、言葉遣いの違いであったり、作家の個性だったりで難しいという面はあります。それは否定できないことです。
でも物語しての面白さ、趣の深さと言うのは本当に、今の作家のそれと何ら変わることはなく、むしろ『今よりずっと前に、こんな物語があったのか!』と驚くこともあるくらいです。
なのでとりあえず、ちょっとでも興味があるようでしたら、まずはその作品に手を伸ばして、読み進めていっていただきたいなぁ・・・とおばちゃんは思うのであります。
はい。と言うわけで、今回の記事はここまでです。
読んでくださりありがとうございました!